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何かと役立つカレンダー

多賀城跡をはじめ各地の遺跡から出土する漆紙文書の中には、「具注暦ぐちゅうれき」という古代日本のカレンダーの断片もあります。

具注暦は朝廷の機関・陰陽寮おんみょうりょうによって毎年作成され、日付や十干十二支といった内容のほか、(多賀城出土の断片では残っていないものの)爪切りや沐浴といった予定も指定されていました。加えて日付の間に余白を設けるレイアウトであったため、貴族たちが付ける日記帳としても活用されました。藤原道長の有名な日記『御堂関白記みどうかんぱくき』も、具注暦に記されたものです。

▲藤原道長が具注暦に書き込んだ日記『御堂関白記』
ユネスコの「世界の記憶」にも登録されている。

出土史料としての具注暦の意義のひとつは、内容から何年の暦なのかを特定することで、遺構の年代の考察に役立つことです。暦に記された吉日凶日のタイミングにはルールがありますし、十干十二支と日付の対応関係も過去の暦のデータと比較すれば、たとえ一部分しか残っていなくてもその年が特定できてしまいます。(参考記事

例えば多賀城跡出土の具注暦では、わずか十数文字の内容の分析から、伊治呰麻呂の乱が起きた宝亀十一年(780年のものと突き止められた事例があります。

世界にひとつだけの医学書

漆紙文書の中には、当時の一般的な学生や役人が勉強に用いていた古典や教科書もあります。その中でも、1991年の調査で出土した漆紙文書は、たった18文字の内容から当時の医学教育の様子が考察された興味深い史料です。

この漆紙文書には、植物のハマビシやクチナシといった生薬の名前と、「それらを合わせてく」という指示が記されており、薬の調合を記した医学書の断片であることが判明しました。このような調合をする薬を調べると、中国・唐の時代の医学書『外台秘要げだいひよう』に記載されたニキビやホクロの治療薬が該当することがわかります。寝る前に治療したい部分に塗り、朝になったら洗い流すという塗り薬でした。

しかしこの漆紙文書は、使う漢字や表現が『外台秘要』と微妙に違っています。ここで重要なのが、『外台秘要』は様々な医学書を引用してまとめられた書物であり、この塗り薬についての記述も中国南北朝時代の『集験方しゅうけんほう』という医学書から引用され、他の引用元と表現が統一させられていたことです。そこで『集験方』の内容を文字を変えずに引用した別の医学書と比較すると、細部の表記が漆紙文書と一致することが判明しました。こうしてこの漆紙文書は、医学書『集験方』の断片であると推定されたのです。

古代日本では、律令によって国ごとに1人ずつ国医師という医学の教官が配置されており、医学生の教育にあたっていました。陸奥国むつのくにの国府であった多賀城跡で医学書が出土したという事実は、朝廷から遠く離れた東北地方でもハイレベルな医師の養成が行われていたことを示唆しています。

また、日本において医学書が漆紙文書として出土した事例はこれが初めてであり、さらに現在『集験方』の原本はこれ以外に全く伝わっておらず、この漆紙文書が世界で唯一の史料となっています。多賀城の歴史と、医学教育の歴史の双方において貴重な出土品なのです。

呰麻呂、君の名は

これまでの解説にもたびたび登場した伊治呰麻呂という人物。彼は蝦夷えみしの族長として、一度は朝廷に服属し地位を与えられましたが、同僚の道嶋大楯みちしまのおおたて蝦夷であることを侮辱されていました。そして宝亀十一年(780年)、本拠地の伊治城で大楯らを殺害して蜂起し、そのまま多賀城へ攻め込み火を放ちます。高校日本史にも登場する「伊治呰麻呂の乱」です。その後の呰麻呂の動向は文献に残っておらず不明ですが、多賀城を中心に陸奥国は大きな打撃を受けました。

ところで、この「伊治呰麻呂」。コトバンクで「伊治呰麻呂」を調べてみると、どの辞書でも「いじのあざまろ」で項目が立てられていますが、高校で日本史選択だった僕は、教科書や資料集で「これはりのあざまろ」と習いました。読みが訓読みの「これはり」に変わりつつあるのには、またしても漆紙文書の研究成果が深く関わっているのです。

▲「いじ」→「これはり」の理由は……?

多賀城跡で出土した漆紙文書が初めて赤外線カメラで撮影されたとき、1点の漆紙文書が研究者の注目を集めました。そこには「此治城」という文字が。そのような名前の城柵は従来知られていませんでしたが、この「此治城」は、「伊治城と同一なのではないかという説が出てきました。

実はこの漆紙文書は、先ほど紹介した宝亀十一年の具注暦と同じ遺構から出土し、近い年代のものであると判明していました。そのため、この文書が書かれた時期も、伊治城があった期間と近い年代といえるのです。そして、漢字の「」と「」は、ともに訓読みで「これ」と読みます。そのため、当初伊治城一帯は「これはり」または「これはる」と呼ばれており、そこにこれらの文字が当て字されたのではないかというのです。

加えて、伊治城があった地域には「栗原くりはら郡」という名前の郡も置かれていました。もし「伊治」が「いじ」だった場合、「くりはら」とは発音的にかけ離れたものになりますが、「これはり(る)」と「くりはら」では発音が似てきます。こうした考察から、現在では「これはり(る)のあざまろ」「これはり(る)じょう」という読み方が有力になってきているのです。

▲伊治城がある自治体は、現在も「栗原市」という名前である。

※蝦夷:古代に関東地方や東北地方に住み、朝廷に服従しなかった人々。中央とは異なる言語や文化で生活していたため、異民族として差別・征服の対象になっていた。

出土文字史料という希望

今回紹介した多賀城出土の木簡や漆紙文書は、その史料的価値の高さから重要文化財に指定されています。これらの出土品は「出土文字史料」の一種にあたり、重要文化財の中でも古文書として分類されています。

出土文字史料とは、遺跡から出土した遺物のうち、何らかの文字が記されているもののことで、後世のために第三者の手で編さんされた歴史書と異なり、歴史的な出来事の当事者が残した史料である点が重視されています。また、かつては「古代の文字史料は既に発見し尽くされてしまった」と考えられていましたが、出土文字史料の登場以降はその認識が変わり、まだ見ぬ文字史料の発見に期待が寄せられるようになりました。

そして、「出土品」と「文字史料」の両方の性質を合わせ持つ出土文字史料は、考古学日本史学(文献史学)という歴史学の2つの分野が協力しながら研究を進めてきました。その結果、どちらか一方の知見だけではわからなかった事実が少しずつ明らかになってきています。

次ページ:実際に多賀城に行ってみよう!

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この記事を書いた人

東北大学大学院文学研究科・修士1年の楠です。 サークルでクイズをやったり、小説を書いたりしています。専門は考古学(主に平安時代の土師器)で、長期休み中は発掘調査であちこちに行っています。 「日常がクイズになり、クイズが日常になる」記事を書けるよう精進します。ご期待下さい!

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