日本の地域文化の違いは意外なところで見つかるものです。
例えば、スーパーで売られている某きつねとたぬきのカップうどん・そば。関東と関西ではつゆが異なり、関東では醤油ベースのつゆ、関西では昆布や鰹節、煮干しのだしを効かせた関西風つゆで販売されています。
さて、私たちは何気なく「関東」「関西」という表現を使っています。この「関」が何を意味しているか、皆さんは考えたことはありますか?
実は関東・関西の意味するところは、時代によって変わってきました。
「関所の東」を「関東」と呼ぶ
「関東」の起源は、7世紀後半ごろまで
※山城・摂津・河内・和泉・大和の5カ国
都が平城京に置かれていた時代(奈良時代)には、
- 東海道の鈴鹿関(現在の三重県)
- 東山道の不破関(岐阜県)
- 北陸道の愛発関(福井県)
という3つの関所が特に重要視され「三関(さんかん・さんげん)」と呼ばれていました。

歴史学者・網野善彦※によれば、8世紀後半から「三関の東側にある地域」という意味で「関東」の語の用例がみられるようになります。ほとんど本州の東半分に相当するわけで、現在イメージされる関東地方よりはかなり広い範囲といえますね。
当時の朝廷にとっては都の置かれた飛鳥や奈良こそが中心であり、自分たちのいるところが日本のどちら側にあるかなど関わりないことだった……かは憶測の一部にすぎませんが、「関西」という語はまだ存在していなかったのです。
「関西」の語の生まれは……
「関西」という言葉が使われ始めるのは平安時代中期。都が平安京へ移ると、愛発関に代わって

そのほかの説も見ていきましょう。
12世紀末、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、急速に「関東」という言葉が定着していきます。幕府の直轄領である関東御領、将軍家の支配地を指す関東御分国というように、「関東」はいわば鎌倉幕府の代名詞として使われるようになったのです。
東の幕府と対比する形で、天皇家が拠点とする地域を「関西」と表記するようになったのは、明確にはこの頃からと言われています。前述の網野氏は、「鎌倉時代の歴史書『
この時点で、「関西」が指す領域が今の関西地方なのか、天皇家が拠点としていた京都近辺のみなのかははっきりしていません。ですが、鎌倉時代の重要史料である『吾妻鏡』のなかで「関東」「関西」の区分が用いられていることから、この時代がひとつの分岐点になったことは確かだといえます。
どこからが関西かはあやふや
江戸時代に入ると、関東一円の8カ国を指す「関八州」という言葉が定着します。これが現在でいうところの「関東」が意識されるようになったきっかけのひとつです。
対して「関西」は江戸時代に入っても範囲があいまいで、おおよそ現在の近畿地方と重なる部分を指すことが多そうですが、はっきりしません。
「関西」についての明確な定義はない
では、「関西」の明確な定義はいつ生まれたのでしょうか?
何だか雲をつかむようですが、「現在も決まっていない」というのが答えに近いでしょう。
そのため、行政上の書類などフォーマルな場では「関西」という表現を避け、「近畿」の語が使われる傾向にあります。こちらは概ね京都・大阪・兵庫・奈良・滋賀・和歌山・三重の2府5県を指すとされています。
京阪神地域だけなのか、周辺の県も該当するのか、あるいは徳島や福井まで含むのか。江戸時代以前のように、漠然と西日本を指して使われることもある―そんな「関西」の範囲が、今後はっきりと定められることはあるのでしょうか。
最後におさらいクイズです!
参考文献
- 網野善彦(2008)『「日本」とは何か』講談社学術文庫