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2024年で創建1300周年! 東北地方の超重要遺跡・多賀城跡の見どころを、2回にわたりご紹介しています。

前編の記事はこちらから。

後編では、学界が驚いた「日本初」の発見を含む、多賀城のユニークな遺物の数々をご紹介します。3ページには、実際に訪れてみたい方向けのガイドもご用意しました!

目次

低湿地の贈り物 多賀城出土の木簡

「日本初」の衝撃ーー「漆紙文書」とは

カレンダーから医学書まで

呰麻呂、君の名は

多賀城跡を歩いてみよう!

低湿地の贈り物 多賀城出土の木簡

まず初めに、多賀城跡を取り上げたこちらのニュースをご覧ください。

花畑が広がる光景がとても幻想的ですね。多賀城はかつてその内側と外側を、外郭と呼ばれる囲いによって区別していました。この外郭周辺は昔から低湿地の地域が多かったのですが、その地形を活かして現在は一角にあやめ園が整備されており、例年6月中旬から下旬ごろには名物イベントの「多賀城跡あやめまつり」が開催されます。

綺麗なだけじゃない!

この低湿地という地形、実は遺跡の発掘調査においても大きな意味を持ちます。その理由は、木製の遺物が多く出土する可能性があるから。

通常の遺跡のように水分が少ない地中では、乾燥や微生物による腐食によってボロボロになってしまうため、木製の遺物はほとんど残りません。しかし、水分を大量に含む低湿地では、木の細胞内に水分が保たれることで組織が補強されるほか、微生物による腐食も防げるため、木製の遺物が良好な状態で出土しやすいのです。

古代の“プロフィール帳”も? 出土した木簡たち

多賀城跡からも、丸太を並べて場所の区画に用いた材木塀など、低湿地に守られていた多数の木製品が出土しています。

中でも注目されるのが、薄い木材に様々な内容を書きつけて用いる木簡です。

木簡の内容は多様で、たとえば多賀城へ運び込まれた物資に付けられていた荷札木簡の中には、武蔵国むさしのくに播羅郡はらぐん(現在の埼玉県深谷市付近)から米が運ばれてきたことが記されたものがあります。

また、駐屯していた兵士の名簿や彼らの出退勤を記したものも見つかっており、人名が記された木簡のひとつに丈部大麻呂はせつかべのおおまろという人物に関するものがあります。

木簡に書かれた内容を見ると、当時年齢は29歳で、左頬にほくろがあり、陽日ゆい郷の川合里というところの人とのこと。住所である陽日郷は、現在の福島県二本松市あたりと推定されています。集落の名前が郷里制(律令時代の国の行政区画)に基づいて記されていることから、これも郷里制が敷かれていた8世紀前半の木簡と考えられます。ここまでくると、何だか大麻呂さん本人の姿が目に浮かぶようですね!

▲木簡の内容とイメージ図。こんな人だったかも?

このほかにも、木製の食器(上のポストの画像にある円錐状の木材)や扇の骨に字の練習をしたもの、魔除けのための呪符として用いられたものなど、面白い木簡はたくさんあります。

「日本初」の衝撃ーー「漆紙文書」とは

そしてもうひとつ、多賀城跡を語る上で欠かせないのが、漆紙うるしがみ文書もんじょと呼ばれる出土品です。

▲こちらは多賀城跡とは別の遺跡から出土したもの。
via Wikimedia Commons 掬茶 CC-BY-SA-4.0(画像を一部トリミングしています)

謎の断片と、土器の中の文字

茶色い革製品のようにも見えるこの遺物。多賀城跡では1970年にゴミ捨て用の穴から見つかって以来、数㎝四方の断片〜30㎝以上のものまで、様々なサイズのものが出土してきました。その穴は伊治呰麻呂これはりのあざまろの乱(※参考:前編記事)の後、多賀城の復興作業のために掘られたものとわかりましたが、遺物の正体はすぐには判明せず。回収されてしばらくは一応「皮製品」として分類され、倉庫の中で眠ったままになったそうです。

しかし1973年の発掘調査で、驚くべき発見がありました。出土した土師器はじき(素焼きの土器)の内側に、文字が書かれた物体が付着しているのが見つかったのです。漆紙文書が日本で初めて発見された瞬間でした。

この漆紙文書は、「計帳けいちょう」という民衆から税を徴収するための台帳であることがわかり、大きな反響を呼んだものの、たまたま漆が付着したただけの偶然の産物と考えられ、他の皮状の遺物とは関連付けられませんでした。しかし、それ以降の調査でも政庁跡の出土品と同様の断片の発見が続きました。そして丹念な観察の末、それらの断片の中からも文字が読み取れるものが見つかったことから、それまで出土していた皮状の遺物も漆紙文書として認定……いわば「再発見」されたのです。

漆紙文書ができるまで

ここで、そもそも漆紙文書という遺物がどのようにしてでき上がるかをご紹介しましょう。

多賀城跡では、漆を保管していたとみられる曲げ物の容器漆が付着した土器が出土していることから、かつては職人によって漆塗りの作業が行われていたと考えられています。液体の漆はデリケートで、ほこりや塵、乾燥から保護する必要があるため、容器に入った漆は、液面に蓋紙ふたがみをかぶせて保管されます

やがて蓋紙に漆が染み込むと、紙の繊維がコーティングされて強度が高まります。加えて多賀城では蓋紙に不用になった公文書を再利用していたために、捨てられた後も地中で分解されることなく「文字の記された遺物」になったというわけです。

特殊な条件下で現代まで残った漆紙文書ですが、古代でも漆を用いる作業自体はありふれたものだったため、多賀城跡以外の遺跡でも、漆作業に同様の蓋紙が用いられていたことが推測されました。そして多賀城での発見以降、日本各地の遺跡から漆紙文書の出土例が報告されるようになり、れっきとした文字史料として研究の対象となっていきました。

肉眼では読めないので……

さて、この漆紙文書ですが、漆でコーティングされている状態では、肉眼で文字を読むのは至難の業です。当初は水中に沈めることで表面の乱反射を防ぎ、強い光を当てることで文字を読み取っていましたが、この方法では読み取りに限界があり、また写真での記録にも不向きでした。

そこで登場したのが赤外線カメラによる撮影です。赤外線カメラは、物体に照射した赤外線の反射量の違いを可視化する装置。漆紙文書に赤外線を当ててこのカメラを通すと、文字を書くのに用いられた墨の部分では赤外線が吸収されそれ以外の部分では反射されるため、くっきりと文字が読み取れるようになります。先ほどの漆紙文書の写真のうち右側にあるものが、このようにして撮影された赤外線写真です。

▲赤外線カメラによる撮影のしくみ(一例)

こうして、手ごわい漆紙文書も容易に解読できるようになりました。現在、この解読方法は木簡や土器に書かれた文字の読み取りにも用いられ、赤外線カメラはなくてはならない存在となっています。

* * *

それでは、いよいよ漆紙文書に記された内容の紹介に入っていきましょう。

次ページ:「世界にひとつだけ」のお宝も!ユニークな漆紙文書の世界

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この記事を書いた人

東北大学大学院文学研究科・修士1年の楠です。 サークルでクイズをやったり、小説を書いたりしています。専門は考古学(主に平安時代の土師器)で、長期休み中は発掘調査であちこちに行っています。 「日常がクイズになり、クイズが日常になる」記事を書けるよう精進します。ご期待下さい!

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