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こんにちは。東北大学の大学院で考古学を専攻しています、ライターのです。2024年は7つの遺跡で発掘調査に参加しました。

そんな僕が現在住んでいる宮城県では、ある場所が大きな節目の年を迎え、話題になりました。仙台市の隣、多賀城たがじょうにある特別史跡・多賀城跡です。

▲来年(2025年)4月一般公開予定の多賀城南門

多賀城跡は2024年、創建1300年を迎え、様々なイベントが開催されました。特に東北歴史博物館で開催された特別展は、来場者数が1万人を超える大盛況となるなど、地元では大きな盛り上がりを見せています。

ただ……

県外の友人知人に聞いてみると、多賀城創建1300年について知らない人がほとんどでした。それどころか、仙台に住んでいる大学の友人の中からも「知らない」という声がちらほら……。

しかし、多賀城跡は東北地方の古代史を研究する上で無視することのできない重要な遺跡であり、広大な遺跡からは貴重な出土品や遺構が数多く発見されています。

そのすごさを多くの人に知ってもらいたい! ということで今回は2回にわたり、多賀城跡のおすすめスポットや出土品を考古学専攻目線でみなさんにお伝えしていきます。どうぞ最後までお付き合いください!

目次

【前編】

実は超・超・超重要「多賀城跡」

激論!「多賀城碑」はニセモノ!?

「真作説」を決定づけた発見

* * *

【後編】

◎低湿地の贈り物 多賀城出土の木簡

◎「日本初」の衝撃ーー「漆紙文書」とは

◎多賀城へ行ってみよう!

※後編は1/2(木)の公開を予定しておりましたが、制作の都合により一時延期とさせていただきます。何卒ご了承くださいませ。

そもそも「多賀城跡」とは?

先ほどもお伝えしたように、多賀城跡は

・古代東北地方の超重要な遺跡であり、

・貴重な出土品や遺構が数多く発見されている

というスポットです。この2点さえ念頭に置いておけば、次の「真偽論争」の章へ進んでいただいても問題ない……のですが、その前に多賀城跡の魅力について、もう少し詳しく触れておきます。

「上位3.4%」の貴重な遺跡

多賀城は奈良時代の724年に現在の宮城県多賀城市に建てられた城柵(朝廷が地方を支配するために設置した防御施設)で、陸奥国むつのくに(現在の福島県・宮城県の一部)国府鎮守府ちんじゅふが置かれていました。

国府とは、律令制に従って各国に置かれた地方行政の拠点で、今でいう都道府県庁にあたります。一方の鎮守府は、朝廷への服従を拒んだ東北の人々……蝦夷えみしを支配するために置かれた軍事拠点のこと。多賀城は政治・軍事両面の中心地だったというわけです。

▲多賀城跡の所在地。森や草地の残る範囲が史跡として指定されている

多賀城は、11世紀前半ごろにその役割を終えたと考えられています。遺跡としての多賀城跡は特に江戸時代以降に盛んに研究され、1922年には宮城県で初めて国の史跡となりました。

もっとも、研究初期の多賀城は単に「蝦夷を制圧するための軍事的なとりで」として理解されていました。1961年から研究者による発掘調査が始まり、柱を立てるための礎石の列や大量の屋根瓦が出土するにいたって、役所的な建物からなる政治拠点も存在していたことが判明したのです。

そこで1966年には、多賀城跡が特別史跡に格上げされることになります。2024年12月現在、国が指定する史跡は1904件、そのうち特別史跡はたった64件であり、割合にすれば史跡全体の約3.4%。日本全体で見ても、多賀城跡がいかに重要な史跡として位置づけられているかがわかります。

その価値が明らかになった多賀城跡を詳しく調査するため、1969年には県立の多賀城跡調査研究所が設立されました。以来50年以上にわたり発掘調査が行われ、多賀城を囲んでいた塀や事務仕事を行う役所跡、さらには鍛冶工房などの存在が明らかになり、瓦や土器をはじめとする大量の遺物も出土しています。

▲多賀城の城前地区に復元された建物跡。鎮守府の役所が置かれていたと考えられている。

※陸奥国:旧国名。8世紀当時の範囲は現在の福島県全域および宮城県の一部だったと考えられ、後に岩手県・青森県・秋田県に相当する地域へも領域が拡大された。

「724年創建」は嘘!? 「多賀城碑」をめぐる真偽論争

そして2024年、多賀城は創建から1300年の節目を迎えたのですが……

そもそも「724年」という創建年はどのようにして判明したのでしょうか?

多賀城が創建された奈良時代以前の出来事の多くは、当時編さんされた歴史書の記述から年月日が特定されています。例えば大友皇子と大海人皇子が皇位を争った壬申の乱は、『日本書紀』の記述から天武天皇元年(672年)の出来事、聖武天皇が発布した国分寺建立のみことのりは、『続日本紀しょくにほんぎ』の記述から天平13年(741年)の出来事であると知られています。

しかし多賀城の創建については、都から離れた地方の出来事であるためなのか、どの歴史書にも記述がありません。そんな多賀城の創建年を唯一示す史料が、現在も多賀城跡に安置されている「多賀城碑」です。

在りし日の多賀城の面影

▲多賀城碑(右)とその拓本(左)

この多賀城碑は、天平宝字六年(762年)にこの地に赴任した貴族・藤原朝狩ふじわらのあさかりによって作られました。朝狩は当時の権力者・藤原仲麻呂の息子で、「神亀元年(724年)に創建された多賀城を、天平宝字6年に俺が改修したぞ!」と喧伝するためにこのようなモニュメントを作ったのです。

しかし、2年後の天平宝字8年(764年)、朝狩は父が起こした「藤原仲麻呂の乱」に連座して処刑されてしまいました。多賀城碑も建立後ほどなく行方不明になったようです。

その後、長い間地中に埋もれていた多賀城碑は江戸時代の初めごろに再発見され、それ以来多くの文化人に注目されてきました。「水戸黄門」こと徳川光圀みつくには仙台藩主・伊達綱村だてつなむらに対し、覆屋おおいやをかけて碑を保護することを助言したほか、『奥の細道』の旅で多賀城跡に立ち寄った松尾芭蕉は、昔のままの碑の姿を見て涙したことをつづっています。

▲覆屋に保護されている現在の多賀城碑。後ろには復元中の南門がある。

向けられる疑惑の目

しかし、明治時代に入ると「多賀城碑は仙台藩がでっち上げた偽物ではないか」とする学説が歴史学者たちの間から出るようになりました。その根拠としては、

・筆跡や字の彫られ方が、建立されたとされる年代よりも新しいようである。

・多賀城と別の国や地域の間の距離が書かれている箇所があるが、常陸国ひたちのくに(現在の茨城県)との距離が下野国しもつけのくに(現在の栃木県)との距離よりも百四十里(約550km)ほど遠くなっている。実際にはそこまで距離は変わらないはずである。

・そもそも多賀城が改修されたという記述が歴史書に見当たらない。

などが挙げられました。

▲宮城県と栃木県、茨城県は同じくらいの距離に見えますが……

それ以降、多賀城碑偽作説は論争に決め手を欠いたまま、半ば定説化していくことになります。

真作説を決定づける発見

しかし戦後の発掘調査の結果、真作説を後押しする重要な証拠が発見されました。

次ページ:多賀城碑を「真作」たらしめた証拠品とは?

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この記事を書いた人

東北大学大学院文学研究科・修士1年の楠です。 サークルでクイズをやったり、小説を書いたりしています。専門は考古学(主に平安時代の土師器)で、長期休み中は発掘調査であちこちに行っています。 「日常がクイズになり、クイズが日常になる」記事を書けるよう精進します。ご期待下さい!

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