真作説のキーマン・屋根瓦
偽作説もささやかれていた多賀城碑ーーその状況を大きく変えたきっかけのひとつが、屋根瓦にまつわる発見でした。
多賀城の中心部であった政庁の発掘の結果、出土する屋根瓦の文様が土層によって異なることが明らかになったのです。下の層になればなるほど古い時代の遺物ということになりますから、土層による瓦の文様の違いは、時期によって異なる種類の瓦が作られていたことを意味します。
創建年代の決定に重要な役割を果たしたのは、「Ⅰ期」に分類される瓦と、それに混在する「Ⅱ期」の瓦、そしてその上に続く「Ⅲ期」の瓦です。Ⅰ・Ⅱ期とⅢ期の間には焼けた土の層が挟まっており、Ⅰ期の瓦はほとんど熱を受けていない一方、Ⅱ期の瓦はほとんどが熱を受けていました。
被熱した瓦とその上の焼土層の関係からは、「Ⅱ期の瓦が政庁の屋根に
またⅡ期の瓦と同じ文様の瓦は、仙台市にある陸奥国分寺跡の創建期の土層からも出土していました。前のページでも述べたとおり、国分寺建立の詔は天平13年(741年)に発布されたので、陸奥国分寺の瓦もそれ以降の年代に作られたことがわかります。さらに、神護景雲元年(767年)創建とされる伊治城跡からも同じ瓦が出土しており、Ⅱ期の瓦は主に8世紀後半に生産され、各地に流通していたことが明らかになりました。
このほかにも様々な検討を踏まえ、多賀城の政庁域では、8世紀後半頃にⅠ期からⅡ期への大規模な瓦の葺き替えや、建物の増築があったことがほぼ確実となりました。これは、多賀城碑に記された藤原朝狩による改修の時期と一致するもので、多賀城碑が真作である可能性がにわかに高まったのです。
真作認定、そして国宝へ
このことから、偽作説の主張も再検討されるようになり、それらは必ずしも妥当とは言えないことがわかってきました。疑義のあった多賀城と他国との距離についても、もしこれが後世に作られた偽作なら、今の感覚では明らかにおかしい記述は入れないはずで、ただちに偽作とする根拠にはならないとも言えます。もしかしたら多賀城が存在したころ、常陸国ヘの道のりは今よりもずっと長いものだったのかもしれません。
また、書体や彫り方についても、詳しく調査した結果碑文に記載されている年代と矛盾はないと解釈できること、また彫り込まれた文字がマス目に沿うような配置になっており、その間隔が奈良時代に用いられた尺と一致することが指摘されました。
それ以降に行われた発掘調査でも、創建期に実施されていた地名の表記様式と一致する木簡が出土したほか、多賀城碑の地下からは、古代でも同じ場所に石碑が据えられていたとみられる痕跡が見つかりました。
これらの成果から、多賀城碑はついに真作と認められます。1998年にはその歴史的価値の高さから国の重要文化財に登録され、2024年には国宝に昇格しました。
多賀城碑あっての「多賀城」
ちなみに、「多賀城」という施設名が記されている文字史料は、これまで多賀城碑以外には見つかっていません。もし多賀城碑が残っていなかったら、所在地の住所(宮城県多賀城市市川)に合わせて「市川遺跡」や「市川城跡」となるように、遺跡そのものが全く別の名前になっていたかもしれないのです。
ですから、この遺跡こそが歴史書に記述のある「多賀城」にほかならないと断定できたこと、またそこから現在の「多賀城市」という市の名前が付けられたことは、多賀城碑があったおかげといえるでしょう。
記事前編では激動の「多賀城碑」真偽論争を中心に、東北地方の一大遺跡・多賀城跡を概観しました。
そして、多賀城の発掘調査からはほかにも様々な発見がありました。「日本初」の史料、そして「世界にひとつだけ」の史料とは? 後編でも、多賀城のユニークな遺物たちをまだまだご紹介します!
【後編公開までお待ちください!】
参考文献
- 安倍辰夫・平川南『多賀城碑ーその謎を解く』雄山閣出版 1989年
- 石松好雄・桑原滋郎 古代日本を発掘する4『太宰府と多賀城』岩波書店 1985年
- 熊谷公男 東北の古代史3『蝦夷と城柵の時代』吉川弘文館 2015年
- 進藤秋輝 シリーズ「遺跡を学ぶ」066『古代東北統治の拠点 多賀城』新泉社 2010年
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