連載「伊沢拓司の低倍速プレイリスト」
音楽好きの伊沢拓司が、さまざまな楽曲の「ある一部分」に着目してあれこれ言うエッセイ。倍速視聴が浸透しているいま、あえて“ゆっくり”考察と妄想を広げていきます。
高校生までの青春は、ほとんどクイズに使ってしまったように思う。
それでかまわないと今も思っているけれど、もう少し高校生らしい煩悶を抱えておくべきだったかもな、と思うのは、今やもう取り返しがつかないからだろうか。
『高校生クイズ』のおかげで多少のデートとかはあったが、それよりも素晴らしいコンテンツに触れている時間や、他者が好きなコンテンツを知る機会としてのクイズに圧倒的な魅力を感じた。
そして、その分の揺り戻しが訪れたのが大学時代だった。自由な時間で無限にコンテンツへと飛び込み、ろくに学校にも行かなくなった。罪悪感から、より一層コンテンツに溺れた。スポーツと音楽、数多の経験、それにクイズ。そのためのバイト。言い訳のようにあらゆるオモシロを摂取し、その度に自己嫌悪も増していく。
そんな自分にとっての救世主が、「岡村ちゃん」こと岡村靖幸だった。
自分を特別なものに思わせてくれた「岡村ちゃん」
唯一無二、天才性にあふれるその音楽と歌詞。口ずさむと心地よいリズム。こんなにいいものを、今自分は聴いているんだという優越感。すべてがその時の自分にとって救いだった。
何よりも、真っ直ぐなのにジメッとした岡村靖幸の詞世界が僕を夢中にさせた。愛しているということは確定で、自分の気持ちを疑うということがなくて、それでもなお相手との距離に迷いを持っている……そんな自問自答的歌詞は、ひとりきりでいろんなことに悩んでいた当時の自分にとって肌に合うものだったのだ。
今もなお、そうしたじっとり感を味わいたくなると岡村ちゃんの曲をかける。決してダウナーではない。元気だけどじっとり。この複雑な感情やムードは、本当にここでしか味わえぬものだ。
そして、そうした岡村ちゃんらしさを存分に発揮しているのが名曲『聖書』であろう。
タイトルは「バイブル」と読むが、なぜ「バイブル」なのか一聴ではわからない。むしろその歌詞は、実に背徳的である。
主人公は学生で、同級生の女の子に憧れているが、その子は35歳の妻帯者と不倫をしている。ああ聞いてくれ、振り向いてくれ、このままならぬ胸の内……という内容だ。もうこの場面設定が刺激的である。
ダークだがファンキーなサウンド、イントロに挿入される長すぎる語り、どこをとっても新鮮な歌詞の譜割り……そして見当たらない「聖書」要素。疑問を感じるたびに何度も聴きたくなる、飽きさせない曲だ。
しかも、今回のテーマはこの謎めいたタイトルですらない(そもそも収録アルバムのタイトルが『靖幸』な時点で、タイトルは一旦放置するのが無難だ)。独特なビート感に合わせて日本語を再構築した、その不思議な歌詞にフォーカスしたいのだ。
長年ファンの間で語り継がれ、『関ジャム 完全燃SHOW』でも取り上げられた伝説的フレーズの謎を、今日は解き明かしたい。
そんな一行が、これである。
Crazy×12−3= me
岡村靖幸『聖書』(作詞:岡村靖幸)
「クレイジー かける じゅうに マイナスさん イズ ミー」と読む。この時点でもう初見殺しだ。
あまりにも意味がわからない、でもそれを受け入れてしまうのが岡村節。1988年の発表以後、そのセンスを語る上で幾度も引用されてきたフレーズである。
同時に、今の今まで明快な意味が解き明かされていない、日本音楽史における未解決問題だ。
それは、紐解かなくてもいいや、と思えるほどの説得力があるからでもある。多くの識者が、岡村靖幸との衝撃的な出会いを「笑い」「爆笑」などのフレーズで紹介するのだが、これはその圧倒的オーラによるものであろう。なんかわからんけど凄い、人はそういうときに笑うのかもしれない。
このフレーズはまさに、笑っちゃうほどすごくて、でもやっぱり意味はわからない、そういったたぐいのものだ。
しかしなお、私は真剣に心配している。
わからないけどなんかすごい、で放置してしまうのもまたもったいないのではないだろうか。最高の歌詞に今一度真剣に向き合うことこそが、より魅力を引き出しうるのではないだろうか。
リリースから35年経った今こそ、オイラーの公式に並び立つであろうこの美しき一行を、なんとかして解き明かしたい。