パリはどのようにファッションの中心地になったの?
では、どうしてパリで行われるファッションショーは特別なのでしょうか? その理由を探るため、まずはフランスとファッションの歴史を見てみましょう。
歴史はルイ14世から
ファッションの都としてのパリの歴史は17世紀中頃、ルイ14世の統治時代にまで遡ります。
彼の即位以前、西洋のファッションの中心地はスペインでした。当時のスペインは新大陸から富を得て黄金の世紀を築いており、ファッションにも植民地からの獲得品を用いていました。その代表例が、メキシコ原産のアカミノキという植物を使った黒色の染料です。この高級な染料による黒を基調としたスペインのファッションが、富の象徴として国内外の流行を牽引していました。
一方ルイ14世は、そうした黒く男性的なスペインのファッションに対抗し、色彩豊かで豪華絢爛なスタイルを好みます。
ファッションには、洋服の物質的な価値にとどまらず、人々の社会的地位や職業、信仰や性格など、様々な意味を含んだ「象徴的」なものとしての機能があります。
ルイ14世はこうした象徴としてのファッションの価値を十分に理解し、国家と王室の威信を示すために利用していました。彼に仕えた財務総監ジャン=バティスト・コルベールが「フランスにとってのファッションとは、スペインにとってのペルー鉱山のようなものである」との言葉を残していますが、華やかなファッションはフランスの国力の象徴だったのです。
宮殿をパリからヴェルサイユへと移したルイ14世は、宮廷内のドレスコードや作法について、細かな規定を設けました。またファッション以外にも音楽、舞台、料理、造園など様々な文化が開花し、ヴェルサイユ宮殿はフランス文化のショーケースとなります。こうしたフランスのスタイルを、スペインを除くヨーロッパ中の王室が真似たことで、フランスは西洋のファッションの中心へと躍り出ました。
市民のファッションにも変化が
また同時期には、国を挙げた服飾産業の活性化により、市民のファッションにも変革が起こったといわれています。それまでの法令では、ドレス職人になれるのは男性に限られていましたが、1675年には女性も職人になることを認められます。またファッションの商人として働き始める女性(marchande de modes)も増え、彼女たちは優れたセンスを活かしてリボン、レース、手袋、香水などのアイテムを仕入れては、上流階級の女性たちに販売しました。
17世紀の終わりには、貴族や裕福なブルジョワジー、外国人がショッピングに訪れ、パリはファッションの街として名を馳せることになります。
現代のファッションにはどうつながっていくの?(2/3)