そばの歴史も修験道に関係がある
戸隠の地でそばが食べられるようになったのは、修験の山として栄えたことに始まる。戸隠山は、古くから「九頭龍」が地主神として信仰され、平安時代からは、山岳信仰の霊場・修験の山として栄えた。山にこもって厳しい修行をする山伏は、食糧として、そば粉を持っていき、水で溶いて食べたといわれている。つまり、忍者と同じでルーツは修験道なのだ。
当時のそばは、今のような麺の形状(そば切り)ではなく、そばがきやそばもちだったそう。
戦国時代、戸隠は川中島の合戦の前線地となり、それを避けて戸隠修験が衰退していく。それと同時に、そばを食べる者もいなくなった。
江戸時代に、そばの技が伝わる
それから時を経て江戸時代。戸隠山は顕光寺というお寺(※)であった。ここは、江戸幕府の直轄地だったため、江戸の寛永寺からお坊さんが派遣され、麺の形状(そば切り)の技が伝えられたという記録がある。
※明治維新の神仏分離令により、顕光寺は戸隠神社へと姿を変えている。
その後、戸隠大権現は、水、農業の神として広く信仰され、全国からたくさんの人が戸隠を訪れるようになる。宿坊では、訪れた人々にそばがふるまわれ、全国各地に戸隠そばの名が広まっていった。
また、戸隠の地にそば文化が根付いたのは、土地柄が大きく関係している。戸隠の地が、そば栽培にあっていたのだ。
そば栽培に適した土地
そばは、寒い地域で盛んに栽培される。世界で最も多くそばが生産されているのは、意外にもロシア(2017年のFAOによる統計)。ロシアでは主に馬のエサとして、そばが栽培されている。
標高1,000mを超える戸隠は、その気候や地形により、米や麦の生産が困難だったが、そばの栽培には適していた。さらに、そばは育つスピードが早く、一般に「そばは75日」といわれている。種まきから2ヶ月半で収穫が可能だ。戸隠では、古くから麻の栽培も盛んで、夏に麻を収穫した後、秋にそばを栽培する、二毛作が行われてきた。麻は換金作物として、そばは食糧作物として、生活を支えていたそうだ。
現在では、戸隠を代表する存在として、たくさんのそば屋が人々をもてなしている。毎年秋には、新そばの提供を知らせる「そば玉」が店の軒先につるされる。
戸隠の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、そばの歴史を学んだ私は、もうそばが食べたくて仕方がなかった。
結論:そばは食べそこねた
そば博物館の取材を終えたのが午後4時近く。この日のうちに東京に戻らなければならない私たちには、そばを食べる時間が残されていなかった……。
悲しい。
せっかくなので、戸隠そばを実際に食べた、QuizKnockの山本さんに話を聞いた。
山森「戸隠そば、いかがでしたか?」
戸隠そばにリベンジを誓った。
戸隠に遊びに行く際は、戸隠そばを食べそこねないよう、スケジュールには余裕を持っていこう!
最後のページで、前日に、長野駅前で食べた夕食の話を少しだけ紹介!