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そばの歴史も修験道に関係がある

▲戸隠そば博物館とんくるりん(筆者撮影)

戸隠の地でそばが食べられるようになったのは、修験の山として栄えたことに始まる。戸隠山は、古くから「九頭龍」が地主神として信仰され、平安時代からは、山岳信仰の霊場・修験の山として栄えた。山にこもって厳しい修行をする山伏は、食糧として、そば粉を持っていき、水で溶いて食べたといわれている。つまり、忍者と同じでルーツは修験道なのだ。

当時のそばは、今のような麺の形状(そば切り)ではなく、そばがきやそばもちだったそう。

▲いろいろなそばの食べ方(筆者撮影)

戦国時代、戸隠は川中島の合戦の前線地となり、それを避けて戸隠修験が衰退していく。それと同時に、そばを食べる者もいなくなった。

江戸時代に、そばの技が伝わる

それから時を経て江戸時代。戸隠山は顕光寺というお寺(※)であった。ここは、江戸幕府の直轄地だったため、江戸の寛永寺からお坊さんが派遣され、麺の形状(そば切り)の技が伝えられたという記録がある。

※明治維新の神仏分離令により、顕光寺は戸隠神社へと姿を変えている。

その後、戸隠大権現は、水、農業の神として広く信仰され、全国からたくさんの人が戸隠を訪れるようになる。宿坊では、訪れた人々にそばがふるまわれ、全国各地に戸隠そばの名が広まっていった

また、戸隠の地にそば文化が根付いたのは、土地柄が大きく関係している。戸隠の地が、そば栽培にあっていたのだ。

▲戸隠神社中社(筆者撮影)

そば栽培に適した土地

そばは、寒い地域で盛んに栽培される。世界で最も多くそばが生産されているのは、意外にもロシア(2017年のFAOによる統計)。ロシアでは主に馬のエサとして、そばが栽培されている。

標高1,000mを超える戸隠は、その気候や地形により、米や麦の生産が困難だったが、そばの栽培には適していた。さらに、そばは育つスピードが早く、一般に「そばは75日」といわれている。種まきから2ヶ月半で収穫が可能だ。戸隠では、古くから麻の栽培も盛んで、夏に麻を収穫した後、秋にそばを栽培する、二毛作が行われてきた。麻は換金作物として、そばは食糧作物として、生活を支えていたそうだ。

▲そばの生育の模型。にょきにょき。(筆者撮影)

現在では、戸隠を代表する存在として、たくさんのそば屋が人々をもてなしている。毎年秋には、新そばの提供を知らせる「そば玉」が店の軒先につるされる。

▲軒先に吊られるそば玉。鼓状の部分は戸隠特産の竹細工でできている。(あさぬま撮影)

戸隠の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、そばの歴史を学んだ私は、もうそばが食べたくて仕方がなかった。

結論:そばは食べそこねた

▲がんばって自転車を漕ぐ山森(あさぬま撮影)

そば博物館の取材を終えたのが午後4時近く。この日のうちに東京に戻らなければならない私たちには、そばを食べる時間が残されていなかった……。

悲しい。

せっかくなので、戸隠そばを実際に食べた、QuizKnockの山本さんに話を聞いた。

山森「戸隠そば、いかがでしたか?」

すすった瞬間に鼻を抜けるそばの香りが芳醇でした。そば単体での風味もさることながら、ネギやワサビといった薬味との相性も抜群です。ぼっち盛りも目を楽しませてくれて最高!
▲山本が食べたそば(映像はYouTubeをチェック!)

戸隠そばにリベンジを誓った。

戸隠に遊びに行く際は、戸隠そばを食べそこねないよう、スケジュールには余裕を持っていこう!

最後のページで、前日に、長野駅前で食べた夕食の話を少しだけ紹介!

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この記事を書いた人

山森 彩加

東京理科大学卒業生の山森です。在学時は天文研究部でプラネタリウム解説をしていました。三鷹の国立天文台で展示解説をしたり、科学館で解説をしたりもしました。日常のなかに“楽しい”や“おもしろい”を見つけられるような何かを発信していければと思います。学士(理学)。

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