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第1問

【幕末、主に新選組が活動していた場所はどこ?】

正解は、「京都」でした。

新選組の前身となったのは「浪士組」という組織です。浪士組は、1863年、将軍・徳川家茂いえもちが京都に向かう(上洛)際の、将軍警護のために組織されました。この時、京都まで将軍を警護したメンバーのなかに、近藤いさみ土方歳三ひじかたとしぞうなど、のちの新選組の主要メンバーがいました。

将軍上洛の後、浪士組は江戸に戻った者と、京都に残った者に分かれました。京都に残った浪士組のメンバーがのちの新選組となるのです。

近藤勇

将軍は上洛の際に、当時外国嫌いとして知られた孝明天皇の前で、攘夷じょうい(外国を打ち払うこと)の決行を約束しました。当時の日本はすでに開国しており、いまさら攘夷を決行しようものなら、列強諸国に攻められてしまいます。

しかし、この時幕府は、孝明天皇の妹・和宮かずのみやを家茂に嫁入りさせ、朝廷と幕府を結びつけることで幕藩体制の強化を図っていました(公武合体)。そのため、幕府は朝廷を敵に回すわけには行かず、この攘夷の約束は建前でしかありませんでした。

第2問

【幕末に新選組を管轄していた、藩主が京都守護職を務めていた藩はどこ?】

正解は、「会津藩」でした。

将軍上洛の後、京都に残った浪士組は会津藩のお抱えとなります。

1862年、幕府は京都の治安維持のため、会津藩主・松平容保かたもり京都守護職に任命します。当時の京都では、反幕府勢力や、攘夷を推進し天皇中心の政治を目指す尊王攘夷派による、暗殺事件や脅迫が発生していました。京都に残った浪士組は、会津藩のもとで、反幕府勢力や尊王攘夷派の鎮圧に向けて活動していました。

会津藩は薩摩藩と協力して、尊王攘夷派である長州藩や急進派の公家らを京都から追い出すことに成功します(八月十八日の政変)。その際に活躍した功績として、京都に残った浪士組は「新選組」という名前を与えられました。

また、刀の印象が強い新選組ですが、会津藩からゲベール銃という小銃を与えられ、銃を用いた訓練をしていたという記録も残っています。

第3問

【1864年に起きた、尊王攘夷派が集まる宿を、新選組が襲撃した事件は何?】

正解は、「池田屋事件」でした。

八月十八日の政変以後、長州藩は朝廷に対する影響力を失いつつありました。京都にいた尊王攘夷派の藩士らは、長州藩の影響力を回復させるため、公武合体を推進した一橋慶喜(のちの徳川慶喜)、松平容保らの暗殺を計画します。

この情報を得た新選組は、京都市内で尊王攘夷派の潜伏先を探し出します。その潜伏先こそ池田屋でした。池田屋を密かに包囲した新選組は、その場にいた尊王攘夷派を襲撃し、暗殺計画を未然に防ぐことに成功します。この池田屋事件によって、新選組の知名度は一気に上昇しました。

第4問

【戊辰戦争最初の戦いとなった、鳥羽・伏見の戦い。勝ったのはどっち?】

正解は、「新政府軍」でした。

1867年、第15代将軍・徳川慶喜は政権を朝廷に返上します(大政奉還)。その後、薩長両藩は、徳川家を政治から排除することを目論み、王政復古の大号令を発します。これにより、幕府は廃止され、天皇を中心とする新しい政府が誕生しました。

しかし、慶喜は新政府に加えられず、官職を辞め領地を返上することになります。この措置により、旧幕府勢力の不満が高まりました。

15代将軍・徳川慶喜

このような状況下で、旧幕府勢力が江戸の薩摩藩邸を焼き打ちする事件が発生。これをきっかけに、薩長率いる新政府軍と、旧幕府軍による戦闘が勃発します。これが鳥羽・伏見の戦いです。

数で大きく勝っていた旧幕府軍でしたが、最新式の装備を有し統率のとれた新政府軍相手に苦戦を強いられ、大敗を喫します。慶喜も密かに江戸へと逃れました。

鳥羽・伏見の戦いには新選組も旧幕府軍として参戦していました。洋式に訓練された薩長両軍の戦い方に圧倒された新選組は、この戦いの後に洋式訓練を行うようになります。

第5問

【土方歳三もここで命を落とした、戊辰戦争最後の戦いが行われた場所はどこ?】

正解は、「箱館」でした。

鳥羽・伏見の戦いに端を発する、新政府軍と旧幕府軍による一連の戦いを戊辰戦争といいます。

江戸城無血開城ののちも、旧幕府軍の一部は新政府軍への抵抗を続けていましたが、敗北が続き、次第に北へと追いやられていきます。

旧幕府海軍を率いた榎本武揚えのもとたけあきや新選組のメンバーだった土方歳三は、蝦夷地(現在の北海道)に逃れます。当時、蝦夷地はまだ新政府軍の影響力が及んでいませんでした。

高幡不動尊金剛寺にある土方歳三像

追い込まれたこの段階に至っても、旧幕府軍は「開陽丸」をはじめとする軍艦を持っており、海軍力では新政府軍を圧倒していました。しかし、悪天候に見舞われ開陽丸を失うと、旧幕府軍は劣勢に立たされ、ついに新政府軍が箱館(現在の函館)への上陸を果たします。これに対し旧幕府軍は徹底抗戦しますが、土方が戦死するなど戦力はますます低下し、ついに降伏しました。ここに戊辰戦争は終わりを告げたのです。

旧幕府軍が占領した函館の五稜郭

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この記事を書いた人

Hirotaka

早稲田大学文化構想学部OBのHirotakaです。学士(文学)。2023年3月をもってQuizKnockを卒業しました。2023年4月以降新規の執筆は行っておりません。

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