近未来、我々人類はついに宇宙人と接触することに成功したが、宇宙人はカメラで会話ができるSkypeを開発していなかったため、音声通話でしか会話出来ないと分かった。
「——地球人は、右利きが多いんだ」
「ミギッテ ナンデスカ」
こんな会話に、あなたはどう答えるだろうか。
……突飛もない設定だが、「何の前提知識も持たない宇宙人に、画像抜きで『右』を説明できるか?」というのは、実はかなりの難問である。
これは次の問いと同じだ。つまり——あなたは「右」を言葉で定義出来るだろうか。
「左の逆」と説明しても「ヒダリッテ ナンデスカ」と聞かれるだけである。「右の逆」と説明すれば堂々巡りだ。
さてさて、「右」に対するアプローチを、素朴な順に始めよう。
よく聞くのが「お箸を持つ方の手」。これではだめだろう。宇宙人は左手で米を食べているかもしれない(そもそも宇宙人がお箸という文化を持っているかも怪しい)。
次に、小説『舟を編む』でも言及された「方角」を使う方法。例えば「北を向いて東」などだ。
しかし宇宙人は聞くのだ、「キタッテ ドッチ」と。さて困る、なぜなら北は「東を向いて左」としか定義できないからだ。「左の逆」と同じく循環参照が発生する。
では最後に、『岩波国語辞典』の説明はどうだろうか。「この本を開いて偶数ページのある方」。これなら循環参照はない。しかしこれも宇宙人との電話ではうまくいかない。
なぜなら、本を開いて見せる必要があるからである。画像情報なしではこの伝え方はうまくいかない。電話の向こうの宇宙人に岩波国語辞典を想像してもらった場合、英和辞典のように左からめくる辞書を想像してしまうかもしれないのだ。
こう考えると、「右の定義」はかなりの難問であることが分かる。
宇宙人とは僕達が持っている前提知識を共有できない。北の方向も、ピアノの鍵盤の並びも、TVリモコンの4色ボタンも、全てが知識を前提とする。画像さえも使えないとなれば、どうすればいいのだろうか。
しかし、どの方向から考えればいいのかは簡単だ。宇宙人と我々人類に共通するものを見つければ良い。
そしてそれは唯一、「物理法則」であるだろう。
物理現象の中に左右が非対称なものがあれば、それを宇宙人に伝え「○○な方が右」と言える。問題は辞書編集者の手を離れ、物理学者の手に渡った。
現代物理学は、この難問を「オズマ問題」と呼んだ。物理学の挑戦が始まる。
少し考えを進めよう。義務教育で習う「フレミングの左手の法則」を使う(「左手」は物理法則の単なる名前なので本質ではない、念のため)。「下に磁石のN極、上に磁石のS極を置き(上方向の磁界を用意し)、導線手前から奥に電流を流す時、導線には右向きの力が加わる」という法則である。
この性質を逆に使おう。「つまり、この実験をやって、力が加わる向きが右」と説明すればいい。
これで一件落着……かと思いきやそうではない。
宇宙人は言うのだ。「エスキョクッテ ドッチデスカ」と。どちらをSに、どちらをNとするかは前提条件なのだ。
ともあれ、「左右」は「S極・N極」を定義をすれば決められることが分かった。S極とN極の区別をつけるというのはつまり、S極側とN極側で非対称な物理現象を発見することと同じである。
……そして20世紀も半ばの1956年、ついに問題は解決を見る。中国人の女性物理学者・呉健雄が、「弱い力におけるパリティ対称性の破れ」を実証したのだ。(「弱い力」は固有名詞。量子力学で考える力の一種。「パリティ」は粒子の性質の1つで、空間反転に関連する)。
彼女は、実験によりS極とN極が区別可能なことを示した。
具体的には、コバルト60の崩壊を観測し、発生するβ線がN極側よりもS極側に多く出されることを見出した。つまり、物理学はN極とS極とを前提知識なしで区別出来るようになった。
磁極が分かれば、フレミングの左手の法則を用いて「左右」が説明できる。果たして物理学はオズマ問題を解決したのだ。今我々は、黒電話で宇宙人に左右を伝えることが出来る。
さあ、右を定義しよう。右とは「コバルト60の崩壊に伴い発生するβ線が多く飛ぶ方向をS極、逆側をN極と定め、S極を上、N極を下として、これに直交する導線に電流を流す時、電流手前から見て導線に力がかかる向き」である。長い……!
この難しさだから、物理学が左右に説明をつけた後も、辞書には「箸を持つ方の手」という説明が載り続けている。
しかし忘れてはならないのは、我々は科学の素養がない限り、「右」すら本当には理解出来ないということだ。宇宙人にバカにされないためにも、学ぶことを止めてはならない。