連載「伊沢拓司の低倍速プレイリスト」
音楽好きの伊沢拓司が、さまざまな楽曲の「ある一部分」に着目してあれこれ言うエッセイ。倍速視聴が浸透しているいま、あえて“ゆっくり”考察と妄想を広げていきます。
新しい年が始まったときくらい、物事をデッカく考えてもいいだろう。
私は一応、毎年デッカめの目標を考え、自らに課している。日本人の学びを変えるとか、全く新しいタイプのタレント像を目指すとか……一人の人間が背負うには大きすぎる目標かもしれない。
それでもやめないのは、達成そのものより達成に向けた過程にこそ価値がある、と考えるからだ。SDGsなどはその最たる例で、アクションを起こすこと自体にも大きな意義があるのだろう。多少は荒唐無稽でも、デッカい目標にだって意味はある。
とはいえ、地球規模のデカすぎる目標を目にしたとき、薄ら寒い気がしてしまうのもまた事実である。世の流れはままならなくて、人類の行く末にはだいぶ希望がない。技術革新が世界を救うかもしれないが、それを超える欲望と争いが我々を先に飲み込んでしまう可能性を否定はできないだろう。
たまが示したデカすぎる「変化」
長らく問題提起されながらも解決の糸口が見いだせない人類の存亡は、様々な音楽のテーマとしても長らく用いられてきた。そして、その中でも随一のヒット曲が、たまの『さよなら人類』である。
1989年に人気番組『三宅裕司のいかすバンド天国』にて披露されたこの曲は、翌年に大ヒットし「たま現象」と呼ばれるほどのブームを巻き起こした。「これまで存在しなかった音楽だけど、良さは伝わる」……そんな受け入れられ方は、間違いなくこの曲の不思議な歌詞が要因のひとつであろう。キャッチーだけど意味はよくわからない、でも一発で覚えてしまう珠玉のサビがこちらだ。
今日人類がはじめて 木星についたよ
ピテカントロプスになる日も 近づいたんだよたま『さよなら人類』(作詞:柳原幼一郎)
サビのみならず不思議なフレーズが並ぶその歌詞は、長らく議論の対象であり続け、数多くの解釈が存在する。作詞者本人はあまり深く考えてほしくなさそうでもあり、今回は細部への追求を避けるが、それでも深読みしたくなるのは予言めいた言葉たちのせいだろうか。
しかしながら、深読みをする以前の問題として、まずツッコまねばならないことがある。
ピテカントロプスには、もうなれないのだ。
曲がリリースされた頃は、「ピテカントロプス・エレクトス」は、ジャワ原人を指す学名として用いられていた。「ピテカントロプス属」に分類されていた、ということになる。
しかし、研究が進んだ結果、ジャワ原人は「ホモ属」に分類し直された。我々ヒトと同じ仲間である。学名も「ホモ・エレクトス・エレクトス」へと変更され、学術上は「ピテカントロプス」という分類が消失したのだ。
もっと言えば、ジャワ原人はそもそも我々ヒトにとって直接の祖先ではない。よく見かける「サルからヒトへ」の直接的な進化の図そのものが誤りとされており、ジャワ原人とは異なる仲間がアフリカにて「ホモ・サピエンス」に変化していったのだと考えられているのだ。
つまり、人類の歴史をタイムマシンで逆戻りさせても、直接ピテカントロプスにたどり着くことはできないのだ。
ヒトは名目的にも実質的にも「ピテカントロプス」に「戻る」ことはできない。これは、この名曲の歌詞に大いなる疑義を呈する事実であろう。
しかしながら、まだ希望を捨ててはいけない。歌詞で歌われているのは、ピテカントロプスに「なる」ことだ。ピテカントロプスが祖先ではないにしても、今後我々がピテカントロプスへと「進化」する可能性はまだ残されているのである。今日はそういう前提でどうにか頼む。
未来の可能性は無限大だ。我々に起こる変化が「うーん、これはもうホモ・サピエンスというよりはピテカントロプスだね」みたいな方向性に進めば、歌詞にあるような世界が実現する可能性はあるだろう。
我々の手で、人類を新たな次元へと導こう。壮大なプロジェクトを始めようじゃないか。