河村です。どうも。
「河村が考えたことをドンドコドコドコと書く日記」こと「あしたはげつようび」のコーナーです。
近況:近くの寺にとある文化人の墓があるのですが、勝手に入っていいタイプの寺か分からず参れないでいます。
今日は「イチョウ」について考えていました。
停めていた自転車のカゴにイチョウの落ち葉が入っていて、秋の終わりを強く感じました。
僕の家の周りや東大の敷地内には、よくイチョウが植わっています。
そういうわけで、イチョウは僕に、最も自然な形で秋を知らせてくれるものになっています。
(人為的な秋だと「ボジョレー・ヌーボー」とかですね)
……さて、大抵の視覚情報が画像としてスマホで簡単に入手できる昨今、絶景はもはや消費財となり、そのありがたみは目減りしました。
これは特に、デジタルネイティブな若い世代に顕著な気がします(全くの主観ですが)。
僕もそういう「冷めたガキ」の1人。色づいたイチョウの木を見てキレイだなとは思いますが、そこから先には進みません。
そんな僕の心を動かすのは、例えば「自転車のカゴに黄色が落ちている」などのエモーショナルな体験。もしくは――
におい。スマホでは再現できない情報。この質の情報は、イコール体験です。スマホ越しではお伝えできない。
僕は子どもの頃、「ぎんなんはくさい」ということを認識していませんでした。
家の近くにイチョウが生えていなかった僕にとって、イチョウとの接点は図鑑、もしくはたまの茶碗蒸し。
図鑑も茶碗蒸しも、くさくなかった。だから僕は、イチョウがくさいものだと知らなかったのです。
もちろん、茶碗蒸しの中に転がっているあの粒がぎんなんであることや、ぎんなんがイチョウの種であることは知っていました。
しかし、実際のぎんなんのにおいは知らなかった。実際に嗅ぐという体験を欠いていたのです。
嗅覚。体験。図鑑では再現できない情報。本物を嗅ぐという、自然の体験。
これを抜かしていた僕は、「ぎんなんはくさい」ということを知りませんでした。
僕が今子どもだったらどうかな、とはよく考えるのですが、きっと図鑑が、スマホで見るwikipediaになるだけでしょう。何も変わりません。
さてぎんなん、イチョウの種子であるからには、その前段階で受粉など色々あるはずです。
イチョウについての生物学的な知識を全く持っていないな? と思ったので、少し調べました。
さすれば、イチョウにはオスの木とメスの木があることが分かりました。
オスの木が出した花粉をメスの木が受け取って受粉、ぎんなん=種子をならせます。
(ぎんなんのならない、くさくない街路樹はオスを選んで植えているのだそうな。)
花粉は風に乗って飛んでいきます。これがメスの木に届くかどうかは、運任せです。
運任せなので、受粉を成功させるそれなりの量の花粉をまく必要があります。
花粉症で有名なスギ。スギが花粉を撒き散らすのを見たことがあるでしょう。受粉を風に任せる「風媒花」は、あのように花粉を風に散らします。
(イチョウの花粉症の方もいるそうです。花粉症としてのシーズンは4~5月だとか。)
花粉は数キロメートルの距離は平気で飛ぶそうです。
数キロメートルの距離を離れたコミュニケーションというのは、植物にとってかなりの「遠距離恋愛」ではないでしょうか。
植物の花粉、人間の出す手紙やメールに似ている気がします。両者が実際には会っていない点が。
ちょっと脇道にそれて、人間の遠距離恋愛について考えてみましょうか。
まずは昔の話。かつての遠距離恋愛の特質は、「単純に接触の回数が少ない」ことに集約されます。
1930年代に提唱された「ボッサードの法則」がこれを物語っています。
ボッサードの法則――「物理的な距離が近いほど、心理的な距離も近くなる」
これは単純に「会う回数が多いほどラブラブ」と言い換えられそうです(法則発表当時、インターネットなんてありませんでした)。
「単純接触効果(繰り返し接したものの好感度は上がる)」という別の効果にも一致しますね。
そういうわけで、昔の遠距離恋愛はボッサードの法則にサックリとまとめられたわけです。
さて、ここで現れたのがインターネットや、スマホ。
現代社会全部に多大な影響を与えたこれらはやはり、遠距離恋愛にも影響しているはずです。
北海道-沖縄間程度の時差のない距離なら、スマホにより、近距離恋愛と変わらない頻度の連絡ができるわけですね。
それでも、遠距離恋愛がつらい(らしい……伝聞です)のはなぜか。
それは、スマホに乗せられない情報があるから。それはきっと、体験。スマホでは再現できない情報。
僕は今回においの話がしたいのではありません。スマホでは伝えられないものが、確かにあるという話をしたいのです(そのたとえが「においに代表される体験」でした)。
スマホには載せられない体験(のような何か)が確かにあって、それは多分恋愛に必要だよね、という内容を書こうとしたのです。
しかし、書きながら僕は気づきました。……本当にそれ、要るの?
もしかして、スマホにより「体験を欠いた遠距離恋愛」が可能になったのでは?
……この恋愛の形態は、イチョウに似ています。
花粉のように情報だけをやりとりして、当の両人は全く会わない。もしかしたら顔も知らない。体験はない。
そんな恋愛が今、理論上はですが、スマホの上で可能になってきている。
体験を欠いた、スマホで伝えられる情報だけからなる人間の恋愛が、もはや構築できるのです。
僕はこの在り方を論理的に、あるいは倫理的に否定する術を持ちません。もしかしたら僕の価値観が、もはや古いだけなのかもしれません。
それでも……このやり場のない気持ちがあることは、確かなのです。
……僕はなんだか虚しくなって、イチョウの木に問いかけました。
「ねえイチョウ、君は恋人の顔を知らなくて、悲しくないのかい?」
イチョウは答えました。
「恋人居ないヤツに聞かれたくないわ」
帰って酒飲んで寝た。
あしたはげつようび。あしたの僕はどんなコミュニケーションをとるんでしょうか。
【きょうのふくしゅう】