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こんにちは、Yoshidaです。

皆さんはこちらの城をご存知でしょうか?

▲五稜郭タワー株式会社提供

そう、北海道・函館にある星型のお城、五稜郭ごりょうかく。1864年に完成し、戊辰戦争で新政府軍と戦う旧幕府軍が最後に立てこもった場所です。現在も訪れる私たちに、幕末の激動を感じさせてくれます。

特徴的なのは、やはりその形です。姫路城など「日本の城」として連想するものとは程遠く、異質なものに見えます。五稜郭はなぜ星型をしているのでしょうか?

実は、この星型には合理的な理由があったのです。

五稜郭は西洋技術を取り入れた城だった!

五稜郭の星型を形づくる5つの角は「稜堡りょうほ」と呼ばれ、土を盛って作られています。稜堡は、大砲などの火器の登場した以降、西洋の都市で発達した防御スタイルです。

▲五稜郭タワー株式会社提供

火器の発明以前、西洋の都市はレンガや石でできた高い城壁で防衛されていました。しかし、大砲が発明されると、これらの施設は標的となり、砲弾によって生じた破片により多くの負傷者を生むことがわかりました。

これに対応した結果、城壁は低くなり、衝撃を吸収できる土を盛り上げたものへと変化していきました。

また、城壁は攻撃を受けた際に反撃しやすい構造にする必要があります。稜堡には大砲が設置され、反撃に有利に機能する目的もありました。

大きなポイントとして、稜堡が城壁に存在すると射撃の死角が消滅します。複数の稜堡を設置することによって、守備の際には各稜堡からカバーしやすく、また攻撃の際には射線が交差し、敵に対して被害を与えやすくなります。

▲五稜郭のメリット(イメージ)

すべての方向からの攻撃に備えるため、西洋の要塞では稜堡を放射状に4〜6つ、またはそれ以上設置する例がありました。

蘭学者・武田斐三郎あやさぶろうは、こうした西洋の築城技術を参考にし、稜堡を5つ持つ五稜郭を設計しました。五稜郭は火器を用いた戦闘を想定した、全く新しい形式の城だったのです。

五稜郭はなぜ勝てなかったか?

しかし、五稜郭に立てこもった旧幕府軍は、新政府軍に降伏して戊辰戦争は終結を迎えます。攻防に長けた城をもってしても、旧幕府軍が勝てなかったのはなぜでしょうか?

当初の建設計画では、五稜郭の出入り口(凹みの部分)に5つの小さな要塞(半月堡はんげつほ)を設け、出撃と防衛を効果的に行う予定でした。しかし、五稜郭には予算の関係から、1カ所しか設置されませんでした。

▲五稜郭の半月堡(三角形のように見える部分):五稜郭タワー株式会社提供

加えて、五稜郭から一定の距離をとった周囲に7つの砲台(分派堡ぶんぱほ)を設けることで、五稜郭を直接砲撃できないようにする計画がありました。ところが、四稜郭や、函館湾に面した弁天岬台場など一部は建設されたものの、不完全な設備のまま戊辰戦争を迎えてしまいました。

▲五稜郭・四稜郭・弁天岬台場の位置関係

これにより五稜郭は多方面からの攻撃に対応しなければなりませんでした。戦闘の終盤で弁天岬台場が陥落すると、約3km離れた函館港に停泊する新政府軍の艦隊からの攻撃は五稜郭に集中しました。

さらに誤算だったのが、幕末の大砲の進化はすさまじく、想定より威力・射程が大きくなっていたことです。新政府軍の艦隊の大砲に、土塁や稜堡のみで対応することは不可能でした。

以上のような様々な原因が重なり、五稜郭は本来想定していたはずの防衛力を発揮できず、落城してしまったのです。

おまけ「もうひとつの五稜郭」

一般に五稜郭というと函館にあるものを指しますが、長野県佐久市にある龍岡城たつおかじょう跡も、同様の形をしています。

龍岡城は、この地を治めていた松平まつだいら乗謨のりかたによって築かれた五稜郭です。現在、一部の建物を除き、龍岡城自体は取り壊され、跡地は佐久市立田口小学校として活用されています。

▲龍岡城跡。五稜郭と同様の形をしていることがわかる。 via Wikimedia Commons Katana213 CC BY-SA 4.0

さいごに

五稜郭は火器を用いた実戦を想定して作られた、当時としては最新式の城でした。城を観光する際は、このように攻める側・守る側の視点になって観察すると、新たな発見があると思います。

参考文献

サムネイル画像:五稜郭タワー株式会社提供

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この記事を書いた人

Yoshida

東京大学大学院博士課程1年の吉田と申します。私の記事が、誰かの「楽しいから始まる学び」のきっかけになればと思います。

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