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解説
正解は「今川義元」でした。東海地方一帯を支配し、「海道一の弓取り」と称された戦国大名です。
ヒント1:豊臣秀吉を家臣の家臣にしていたことがある
若い頃の豊臣秀吉(当時は「木下藤吉郎」という名前)は、今川義元の家臣・松下之綱という人物のそのまた家臣だった時期があります。秀吉が仕えた当時、之綱は今川義元のもとで1つの城を任されていました。
秀吉が之綱に仕えていた期間は3年間に過ぎませんが、30年以上が経過し秀吉が天下を統一した後、之綱は久野城(現在の静岡県)の城主となっています。2人の関係をはっきりと示す史料はないようですが、秀吉はかつての主に恩を返したのかもしれませんね。
松下家は大名の中では小さな家でしたが、その足跡は現代にも残っています。松下之綱の息子・重綱は現在の茨城県へと領地替えされてしまうのですが、この地で「網火」という花火の一種を考案しました。この綱火は現在、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
ヒント2:徳川家康を人質にしていた
徳川家康の父は今川義元の勢力圏に領地を持った小規模な大名であり、家康は8歳にして今川家の人質となっています。14歳からは今川義元の名前から一文字を与えられて「元信」と名のり、16歳の時には今川家の女性・築山殿と結婚するほどに今川家と縁を深めたようです。
織田信長との「桶狭間の戦い」の直前にも今川義元の味方として食料の運搬を担っていますが、義元が亡くなると家康は岡崎城で独立しました。
家康は「人質」ではありましたが、今川家との婚姻などからも分かるように悪い扱いを受けたわけではないようです。当時、今川家が治めていた駿府は全国有数の文化都市であり、ここで学んだことが江戸幕府を作った晩年に至るまで家康の役に立ったともいわれています。
ヒント3:織田信長に敗れて亡くなった
1560年、今川義元は大軍を率いて織田信長の領地に攻め込み、戦いが起きました。これが桶狭間の戦いです。この戦いで今川義元は討ち取られてしまいます。
現在の静岡県から愛知県にかけての一大勢力だった今川家ですが、桶狭間の戦い以後は衰退してしまいました。
かつては「油断していた義元を信長が奇襲した」と語られていた桶狭間の戦いですが、最近ではこの見方は否定されつつあります。現代では信長は正面から義元と戦い、義元の本陣に突撃したという説が有力とされているようです。
今川義元は織田信長を語る上での引き立て役になってしまいがちですが、実際には武田信玄らと同盟を結んだり、財政基盤や軍事力を強化したりと外交・内政の両面で実績を残しています。脇役だと思っていた人にも深い物語があるのも歴史の面白さの一つだと思います。
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