現代とは決定的に違う避難のスタイル
▲1923年関東大震災の避難の様子(画像出典:スタジオジブリ)
現在と大きく違うのは、大荷物を持って避難していることです。
画像を見るとタンスなどの大型の家財道具まで持って逃げ出している人もいますね。また、当時は大八車といわれる荷車に荷物を積んで広場などに逃げる人もいました。
その結果、避難した場所に布団や衣類など燃えやすい家財道具の山ができてしまい、火災の延焼や逃げ遅れにつながってしまいました。このことが「必要最低限のものだけを持ってすぐ逃げる」「渋滞を起こさないために車を使わない」などの現代の教訓につながっていると考えられています。
ちなみに、江戸時代では、大八車に家財道具を載せて逃げるのは禁止されていました。しかし、時代が進み人口が増加したことで、そのルールが薄れてしまったそうです。世代を超えて災害の教訓を活かすことの難しさを痛感します。
▲大八車。江戸時代では避難時に使うのは禁止されていたが、関東大震災では避難に多く使われてしまった
震災前後で激変した東京の街並み
関東大震災によって、江戸時代から大正時代にかけてつくられた東京の街並みの多くが失われました。その一方、復興事業によって新しいものが次々につくられ、現代の東京の街の骨格が形成されるようになりました。
最後に、「こち亀」と『すずめの戸締まり』で描かれた震災前後の変化を紹介していきます。
地震で失われた東京のシンボル「凌雲閣 」
大人気漫画・アニメ『こちら葛飾区亀有公園前派出所』においても関東大震災が描かれている話があります。関東大震災で亡くなった友人を探す老人の物語です。
煙突や木に登り警察に注意される老人・正吉と、両津勘吉の前に現れた霊の若い女性・花代。花代は関東大震災で亡くなり、友達と約束していた「十二階」の凌雲閣に登ることができなかった。その友達は正吉で、彼は花代を探して高い所へと登っていた。両津の同僚・中川が凌雲閣を復元し、花代と正吉は数十年越しの約束を果たすことができた。
この作品で登場するのが、当時日本一高いタワーであった凌雲閣。浅草十二階という名前でも親しまれた、かつての東京のシンボルです。日本において初めて電動式エレベーターが設置された場所でもあります。
▲現代の私たちにとっての東京スカイツリーのような存在
その東京のランドマークは、関東大震災によって崩壊してしまいました。その社会的インパクトは、発災翌日の大阪朝日新聞の朝刊の一面に、「浅草十二階倒壊し 火災四十八箇所に及ぶ」と報じられたほどでした。
▲地震で被害を受けた凌雲閣。その後、ほどなくして修復の見込みが立たず解体されました
凌雲閣と同じ浅草区にある浅草寺の本堂や五重塔は、周囲が火に囲まれていたのにもかかわらず無事でした。浅草寺のあった浅草公園の樹木や広場が延焼を食い止めたためと考えられています。
震災を経て生まれ変わった東京
関東大震災の被害をふまえ、数々の復興事業が行われました。特に力が入れられたのが橋の復興です。震災以前に多く見られた火災に弱い木製の橋から脱却し、鉄製の橋が数多く建設されました。
その一環で誕生したのが、御茶ノ水にある
▲復興橋梁のひとつの聖橋。コンクリートむき出しのアーチ構造がたまらない
▲聖橋から見た景色(ミミズが出てきたトンネル)
この大事なシーンに、関東大震災の復興における大事な橋が舞台に選ばれたことに、私は驚きを隠せませんでした。この映画が3.11を描くことは知っていたけれど、関東大震災をもここまで丁寧に描くのかと。きっとそこには、100年前の災害の記憶が薄れていることへの新海誠監督のメッセージが込められていると感じました。 他にも、復興事業の一環で、国によって隅田川に架かる六大復興橋梁も作られました。そのひとつの永代橋は、国が担当した全115橋の予算の約11分の1がこの橋一本につぎ込まれるほど気合が入れられたものでした。 ▲永代橋。その美しい景観から観光スポットにもなっている
のちに、そこまでお金をかけて作られた復興のシンボル橋の永代橋を、「こち亀」の主人公の両津勘吉は思いっきり破壊してしまうのだが……。 『すずめの戸締まり』は、災害によって「いってきます」のあとに「ただいま」が言えなくなった人が大勢いたことを教えてくれました。「こち亀」は、災害で友達が亡くなったことを受け止めきれない老人を描写していました。 そんな当たり前の日常を私たちから突然奪ってしまうもの、それが災害なのだと思います。そして、きっとその悲しみは100年前も今も変わりなかったと。その悲しみを繰り返さないためには、過去の災害から学ぶしかありません。 私は「ただいま」が災害で奪われてしまわない世界になったら素敵だと思っています。この記事が、そんな世界へ入るための扉のひとつとなることを切に願って。 【合わせて読みたい】おわりに