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2026年1月19日〜1月25日まで、Webメディア「QuizKnock」ではQuizKnock感謝祭を開催中! スペシャルな記事を一挙公開しています。
ぜひ「#QuizKnock感謝祭」をつけて記事の感想をつぶやいてください!
連載「伊沢拓司の低倍速プレイリスト」
音楽好きの伊沢拓司が、さまざまな楽曲の「ある一部分」に着目してあれこれ言うエッセイ。倍速視聴が浸透しているいま、あえて“ゆっくり”考察と妄想を広げていきます。
過ぎたるは猶及ばざるが如し、というフレーズを、もちろん日常で使うことは少ないのだが、たまに使いたいときにふと言葉に詰まってしまう。あれ、どっちだったかなと。
数秒で思い出しはするのだ。「過剰であることは不足があることと同じくらい良くないよ」、という意味だと。冷静に考えればそうなのだが、「誤用が多いフレーズだったな、気をつけないとな」と思うとどうにも身構えてしまい、一度自分から出ようとした言葉を疑ってしまうのだ。

「そうそう、過去を振り返っても仕方がない、みたいなことではないよな……」と思い直してからじゃないと、本来の意味で用いることが、どうにもできない。ビビってしまう。
こんなことになるなら、いっそ「誤用」とされているものも認めてしまいたいくらいだ。言葉の意味の誤りなど、いちいち目くじらを立てて訂正したいとは思わない。
令和の「愛」が向かう先は……
とはいえ、令和は「盛り」の時代、物価高に沿うかのように、われわれの生活は言葉のインフレに満ち満ちてきた。普段の数倍FIGHTし、キュンが募って死を迎え、かわいすぎても死ぬぅ……命がいくつあっても足りない。
その究極形に位置するヒット曲が、M!LKの『好きすぎて滅!』だろう。
愛情というのは古来よりどうしてもとどめ難く、恋文やラブソング、未成年の主張などへと形を変えて発露されるものだが……令和も7年、現代の流儀は一味違う。その感情ゆえか、愛情を抱えた主体は内部から崩壊し、「滅」するのだ。
マジ ぎゅんぎゅんぎゅん 好きすぎて滅!
Crazy Crazy この愛は Crazy 「ごめん、もう我慢できねえ。」M!LK『好きすぎて滅!』(作詞:MUTEKI DEAD SNAKE)
初めて聞くフレーズだが、なんとなくわかったような気になってしまう、素晴らしい歌詞だ。一発で耳に残り、引っかかるけど納得もできる……ヒットソングの要件をこれでもかと満たしている。とにかく滅、滅、滅なのである。
しかし、私はあえて立ち止まる。それでこそ厄介知識野郎伊沢拓司だ。
じゃあ、その滅とは一体、なんなのだろう、と。
曲の中であまりにも自然に使われているのだが、よく考えると「滅」を一字で使うケースというのは、あまり見かけない。
なにかこう、悪霊を退けるときに「滅〜〜〜ッ!」みたいなことを言っている描写が、漫画などであった気もするのだが、「滅 漫画」で検索しようものなら『鬼滅の刃』ばかり出てきて判然としない。

各種SNSでビジュいい人たちに触れる機会も多く、アプリでの出会いが加速し、かわいいだけでも全然OKなこの現代にあって、「好きすぎる」ことなど容易に起こりそうだ。しかし、その先に待つのは「滅」。こんな不穏な状態にしばしばなっていたらまさに過去イチCrazyだろう。せめて「滅」について知っておけば、傾向と対策のちからで、好きすぎを避けることもできるはずだ。
医療逼迫の時代にあって、セルフ滅ディケーション、滅に対する自助が国民ひとりひとりに求められている。安心して好きすぎる状態を作り出すため、「滅」とはなにかについて探りたい。
まずは、基本から。「滅」一文字で何を示すかを調べてみる。
滅とは
こういうときはベタに辞書を引いてみるものだが、さして、おもしろみのある字義などは出てこない。存在していたものがなくなる、的な意味がメインだ。
第二義以降も「あかりが消える」「高僧が死ぬ」ことなど、基本的には第一義の応用で説明できる範囲にとどまる。このあたりと「好きすぎて滅」をつなげることは、通り一遍の解釈では難しい。
北電子のスマスロ『マタドール』が、ボーナス当選時に明滅することを、MVの闘牛士衣装で表しているならたいしたものだが……MVのどこを見ても「パチンコ・パチスロは適度に楽しむ遊びです。のめり込みに注意しましょう。」とは書いていなかったので、これは公式の案件ではないだろう。ステマでない限りは勘違いだ。

そもそも「持てる全部差し出そう」と歌ってしまっているので、令和のギャンブル関連法規をしっかり逸脱している。スロット路線は棄却だ……となると、辞書的な解釈は、ひとまずは難しそうである。
ただ、仏語としての「滅」を調べてみると少し世界が広がる。デジタル大辞泉を見てみよう。

さらに「滅相」を引いてみると、

四相とは物事の移り変わるさまを4つのフェーズにまとめたもので、滅相はその最後。

真如とはありのままの姿、常住とは永遠不変なこと、寂滅は悟りの境地。
つまり、実は「滅」一文字で表せる意味があって、それは「滅相」、すなわち物事の終わりや、ありのままで悟りを開いた姿を意味するのだ。
この意味ならば、「好きすぎが起こす現象」っぽく感じられるだろう。推しのライブを見ていて「ああ、もうダメだ……」「むしろこのまま終わってくれ」と思うことはままある。好きすぎるがあまり、脳がオーバーフローする体験を少なからぬ方が経験しているはずだ。

しかし、気をつけなければいけないのは、あくまでこれが仏語(フランス語ではなく仏教用語)であることだ。単なる終わりではない、一切の因縁が消え、悟りを開くのが滅である。残念ながら尊さを感じれば感じるほどに推しとの因縁は強くなり、悟りの境地からは遠ざかるばかりだ。煩悩はとどまるところを知らない。
そもそも、ありのままの姿でライブに来るやつなんていないんだ、みんなグッズを買ってメンカラで着飾って、一生懸命ビジュを整えてから行くのだ。次の曲が始まったらよりハイテンションでペンライトを振っているはずだ。
これのどこに悟りがあるのか? 好きすぎるほどに、われわれは悟りから遠ざかる。むしろ「好きすぎて貪」、むさぼり欲することこそが推し活だ。


















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