平安時代末期に起きた治承・寿永の乱は、一般には源平合戦の名で知られています。
この6年余りの戦いは、貴族による支配から武士による支配への転換点になったという歴史的な意義だけでなく、『平家物語』など、この乱をもとにした多くの文学作品が作られたことから文化的な意義も非常に大きいものです。
この記事では、源平合戦について説明します。
教科書よりは詳しいですが、歴史ファンの読者の方々にとっては物足りないと感じるかもしれません。きっと全問正解できるでしょう。
まず、この乱が起こるに至った背景を簡単に説明します。
源平合戦の直前に当たる1170年代というのは、平氏政権の全盛期でした。
平氏のトップであった平清盛は武士として始めて太政大臣(律令制における最高の官職)になり、平氏一族で朝廷の官職の大半を占めるほどの栄華を極めていました。
一方で、同じ武士の一族である源氏は1159年に起きた平治の乱での敗北により各地に配流されていました。
権力が一部に集中すると当然、権力の外にいる人たちから不満がわき起こります。
1177年に、院政を行っていた後白河法皇の近臣、藤原成親・俊寛らが平氏打倒の陰謀を企てたとして処罰される(鹿ケ谷の陰謀)など、院政勢力と平氏は激しい対立関係にありました。
1179年、所領問題をきっかけとして、清盛は軍を率いて京都に乗り込みクーデターを起こします。
これにより後白河法王は鳥羽殿に幽閉され、平氏の独裁が完成しました。
翌年、清盛の孫にあたる安徳天皇が3歳で即位し、清盛は天皇の外祖父となり絶大な権力を握ります。
(これは、藤原氏が摂関政治において権力を築き上げた手法と共通しています)
源平の戦いの直接のきっかけを作ったのは以仁王(もちひとおう)という皇族です。
彼は後白河法皇の第三皇子でしたが、安徳天皇の即位により皇位継承が絶望的になっていました。
そのため以仁王は、源頼政(彼は源氏でありながら清盛からの信頼を受け公卿に任ぜられていました)の助けを借りて平氏追討・安徳天皇の廃位の令旨(命令)を出しました。
以仁王と源頼政は平知盛・平重衡の猛攻を受けて平等院で戦死しましたが、令旨は全国に伝わり、各地で源氏が挙兵しました。
こうして源平合戦が始まりました。ここから先はクイズ形式で進めます。
さて、源氏同士で争っている間に平氏は再び勢力を取り戻してきました。ここから源氏と平氏の総力戦が始まります。
続きは後編へ。