問題の解説
第1問
【初代将軍徳川家康。彼が開いた幕府はどれ?】
正解は「江戸幕府」でした。
言わずと知れた江戸幕府、初代将軍の徳川家康。彼のエピソードには事欠きませんが、ここでは「徳川」という姓について取り上げましょう。
家康は三河(現在の愛知県東部)の戦国武将で、元々は「松平」を名乗る家柄でした。三河の国守となるにあたって、源氏の名門・新田氏の一族である得川(徳河とも)氏の子孫を自称し、「徳川」に姓を改めます。
天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の死後、家康は1600年に関ヶ原の戦いを制し、1603年に江戸幕府を開きます。こうして、約260年にもおよぶ一時代が幕を開けました。
第2問
【2代将軍・秀忠。彼の将軍就任は大坂の陣よりも前?それとも後?】
正解は「前」でした。
家康の息子、2代将軍・秀忠が将軍位に就いたのは1605年のこと。これは、1614〜15年に起こった大坂冬の陣・夏の陣よりも随分前のことです。
家康が秀忠に将軍職を譲ったのは、将軍が徳川家による世襲であることを天下に示すため。家康が政権を握っているのは秀吉亡き後の一時的なもの、と思っていた豊臣方は、このことに心中穏やかなはずもありません。両陣営の最後の戦いである大坂の陣がこの後に起こるのも納得ですね。
第3問
【3代将軍・家光が臣下に言い放ったとされる言葉。「私は祖父、父と違い〇〇の将軍である。」〇〇に入るのは?】
正解は「生まれながら」でした。
家光の生まれた1604年には、すでに家康が江戸幕府を開いており、天下はほぼ徳川のものでした。このような事情から、彼は就任直後に自らを「生まれながらの将軍」と称し、徳川家の力を誇示したと伝えられています。
家光の時代には、武家諸法度や参勤交代が整備されるなど、幕府の地固めが行われました。キリスト教の禁止や鎖国も彼の時代の産物であり、このような政治は穏健的とは言い難く、武断政治と呼ばれていました。
第4問
【4代将軍・家綱の世で起こった、幕府転覆を目論んだ事件は何?】
正解は「由井正雪の変」でした。
この頃、家光までの強権的な政治の影響によって、大名の取り潰しが相次ぎます。そのため江戸には、主人と収入を失った武士(浪人)があふれていました。このような浪人たちを集めて、軍学者・由井正雪を中心に幕府転覆を目論んだのが慶安の変(由井正雪の変)です。
各地で起こそうとした反乱は未然に防がれましたが、世情不安は相変わらず。そこで、4代将軍・家綱の時代は武力による支配が緩められ、文治政治への転換が起こりました。大名家の取り潰しの原因となっていた末期養子(後継のいない領主が危篤になってから養子を願い出ること)の禁の緩和などがその一例です。
第5問
【5代将軍・綱吉が行なった生類憐みの令。この法律で特に手厚く保護された動物といえば?】
正解は「犬」でした。
生類憐みの令は、江戸時代随一のインパクトを持つ法律と言っても過言ではないでしょう。この法律は、世継ぎの男子を得るための半ば願がけのようなものであったという説が一般的です。綱吉は戌年生まれだったので特に犬が手厚く保護されたことから、彼には犬公方(公方=将軍のこと)というあだ名がつけられました。
一方で、京都や大阪など上方ではこの頃、元禄文化と呼ばれる町人中心の華やかな文化が栄えました。文学の井原西鶴や近松門左衛門、絵画の尾形光琳らが有名です。
尾形光琳『燕子花図』
第6問
【6代将軍・家宣の世から始まった、儒学者・新井白石を中心とした政治を何という?】
正解は「正徳の治」でした。
家宣の世では、綱吉が遺した生類憐みの令の廃止など、数々の政治的刷新が行われました。中心となったのは儒学者の新井白石で、正徳の治は道徳によって世を治める儒学的な思想に基づいています。
乱れていた貨幣制度を立て直すため、新たに正徳金銀を発行したり、朝廷との関係を改善するため、新たな宮家(閑院宮)を設立したりしました。
新井白石
家宣の在職期間は、1709〜12年とわずか3年で、正徳の治は次代将軍・家継にも引き継がれることとなります。
第7問
【最も若くして将軍に就任した7代将軍・家継いえつぐ。就任時、彼は何歳だった?】
正解は「3」でした。
家継は、6代将軍・家宣の息子です。兄2人が若くして亡くなったため、わずか3歳(満年齢)で将軍に就任しました。当然、政治を行うには幼すぎたため、新井白石による正徳の治が引き継がれました。
家継は就任から4年後、わずか6歳で亡くなります。もちろん世継ぎはおらず、徳川御三家のひとつである紀伊徳川家から、藩主・吉宗が後を継ぐことになります。
7代将軍・家継
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