なぜ外は明るく、部屋は真っ暗なのか
理由が示唆されるのは、後半に差し掛かって登場する。
「戦場のダンスホール」という、唐突に具体的なひとことが、大きなヒントとなる。
わけのわからないとこにいるみたい
遥か彼方の戦場のダンスホールサニーデイ・サービス『花火』(作詞:曽我部恵一)
そう、この曲は戦争を歌った曲なのだ。
お祭りみたいに外が明るいのは、爆撃や火災による閃光なのだろう。部屋は敵の目を逃れるために明かりをつけることができない。それでも、危険な外を避けて部屋の中にいるのだ。
きらびやかな曲調とは裏腹に、シリアスなテーマを持った歌詞である。そう思って聞き直すと、ピアノの旋律や壮大なドラムに、どこか悲しみを感じ取ることもできるだろう。
精緻に読むと、腑に落ちる形で歌詞のテーマが見えてくる。
これが、私のやろうとしたことである。些細な歌詞から生まれた小さな疑問を見逃さず、文法的に無理のない形で解釈を広げることで、曲のメッセージを受け取れるのだ。この行為自体が、もう楽しい。
さて、「戦争を歌っている」という解釈は、詩を書いた曽我部恵一も自ら認めるところだ。彼らの自伝的書籍『青春狂走曲』でも、この曲に触れる箇所がある。
隅田川を舞台にした戦時中のドキュメンタリーを見たことがあって、それで「花火」という曲を作ったことがあって。空襲と花火のイメージをひとつに合わせて作った曲で、それは結局かたちにならなかったんです。メロディも歌詞もいまのものとは違うんだけど、「花火」というタイトルの曲はずっと作ろうと思っていて、それが今回かたちになりました。空襲で外は昼みたいに明るいんだけど、この時代が終わったらどこか旅行にでも行こう、というストーリイで。
サニーデイ・サービス、北沢夏音『青春狂走曲』(スタンド・ブックス刊)
フロントマンである曽我部恵一は、サニーデイ・サービスでもソロでも戦争について多くの作品を残してきた。そういった背景を知っていれば感づくこともできるだろうが、そうでなくても「ちゃんと読めばわかる」作品になっている。完成度のとても高い、何度でも味わいたい一曲なのだ。この原稿を書く途中も何度聴いたか……でも飽きない。
たまには歌詞に向き合うと、新たな世界がそこにある。一曲をより楽しく、エモーショナルに味わうことができる。そしてその経験は、SNSで「読む」機会の増えた若者世代にとっては特段によい練習となるだろう。講演では、そんなことを伝えたかったのだ。
もうひとつ、浮かぶ疑問
さて、ここまでは「答えのある問題」だった。インタビューを読めば証拠がある、裏の取れた疑問だったと言えよう。だからこそ、安心して講演の題材に出来たのだけれど。
ここで、さらに一段階、難易度を上げたい。まだ疑問が残っているからだ。
正直、ここからの内容については確信がない。あくまで「私の解釈」である。
とはいえ、歌詞を深く味わうためには、まだ説明していない要素が多すぎるのだ。もう一歩進むために、新しい課題を設定しよう。
なぜ、この曲はわざわざ「エジプト」をモチーフにしているのだろうか。
ピラミッドの上 打ちあがる花火をきみと見ていたい
スフィンクスと盗賊が踊る 揺れる幻サニーデイ・サービス『花火』(作詞:曽我部恵一)
先にも述べたように、この曲のサビは「砂漠にでも行こうか」のあと、想像の中の砂漠の情景が歌われている。ここに登場する花火は、本物の花火だ。実際、エジプトではピラミッドの上に花火を上げる催しも行われている。
ただ、問題は「なぜピラミッドなのか、エジプトなのか」である。
もちろん、「たまたまイメージとして魅力的だから」「情景として美しく、異国へのロマンを掻き立てるから」でもいいのだろう。エジプトであることも、たとえエジプトでなかったとしても、それは大きな問題ではないのかもしれない。
ただ、私は「エジプトであることの意義」が存在するようにも感じている。歌詞中のあるフレーズが大きな意味を持っており、そこを描きたいがためにエジプトという題材が使われているのではないか、と思うのだ。
では、それはどこだろうか。
私の答えは、ここだ。
もしもすべてが夢だとしても
踊り続ける ファラオにあわせてサニーデイ・サービス『花火』(作詞:曽我部恵一)
「戦場のダンスホール」に続くこのフレーズ。
なぜ、ファラオにあわせて踊るのだろうか。
ダンスホールでの踊りというのは、音楽にあわせて踊ることはあっても、なにかに付き従うように踊るものではないだろう。誰かに倣って踊る、ということはあまり考えられない。
場所が「戦場」であることも気になる。ここで歌われているのはこれまた幻想の世界。現実ではないのだろうけれど、サビで歌われた「この時代が終わった」想像は「戦争後」のはずで、戦場のダンスホールは存在しないはずだ。
となると、ここで歌われているのはサビとはまた別の世界、ということになる。スフィンクスと盗賊が踊っている踊りとダンスホールのダンスは、別のものだ。
となると。「ファラオ」という存在の意義が、解釈の鍵となる。
ファラオは王、権力者である。絶対的な存在だ。ファラオに合わせて踊る、というのは、おそらく強制力が働いてのものなのだろう。
つまりは、夢だろうとなんだろうと、ファラオが踊れと言うならば、あわせて踊るしかない、戦うしかないのだ。ここで歌われているのは、一市民が、権力に従って戦いに巻き込まれる、そういった状況ではないだろうか。
同様に、サビの歌詞もエジプトについての知識から解釈が広がる。
戦争が終わったあとの世界を歌ったサビ。踊っているのは「スフィンクスと盗賊」である。
スフィンクスは王や墓を守る存在。対して盗賊は墓を暴く存在である。対立するはずの両者が手を取り踊っているのだ。これはまさに、対立のなくなった戦後の世界を描いている、と言えるのではないだろうか。
ファラオ、スフィンクス、盗賊。これらのエジプト的なモチーフは、権力や対立を描くためのアイテムとして、狙いを持って配置されていると私は考える。世界に数多あるスポットから、なぜ古代エジプトのモチーフが選ばれたのか……そこに理由が存在するという前提に立つなら、このような結論に至るだろう。戦争を歌う上で、美しく、知名度も高く、それでいて関係性を示せるとてもいい題材だった……はずだ。
歌詞が教え、広げてくれる世界
最後に答え合わせとして、曽我部恵一自身が監督したPVを見直して欲しい。
スタジオの中、同じ踊りの4人の踊り子と、その真ん中に倒れ込む1人の踊り子。やがて踊り子たちが折り重なり倒れると、倒れていた1人は歩き出し、外へ出て夜空の下を自由に舞うのだ。
ここまで読んできたなら、この映像が権力や全体主義を示唆するものに見えてくるはずだ。バイアスかもしれないが、曲のテーマに照らし合わせると、私にはそう解釈できる。このPVがあって、よりテーマが補強されているとすら思えてくるのだ。
改めて、とても良い歌詞である。
戦争やそれに踊らされる人々を、幻想的な表現と、ミクロな生活の視点を同居させて描いている。そして同時に、サビが「きみの横顔がきれいだね」で終わるように、戦争に負けぬ身近な愛を大きく描いてもいる。
壮大でロマンある旋律、大きな詩世界。エキゾチックなモチーフで想像を広げつつ、批評的でもあるという懐の深さ。解釈が合っているかはわからないが、自分はこの一曲で何度も何度も心動かされたのだ。
自分でこういう詩がかけたらカッコいいなあ、と思う。
でも、それができなくても、味わうことができるだけでとても幸せだ。自分の中になかった考えや視点、世界の味わい方を、歌詞は教えてくれる。それをたくさん受け取るために、つぶさに見ていく精読が価値を持つのだろう。
これを読んでくれた人は、この詩をどう味わっただろうか。これからも、ときにおかしく、ときに真面目に、講演に劣らぬクオリティで世界を拡張していきたい。
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