QuizKnock

アプリで記事をもっと見やすく

インストールする

カテゴリ

ログイン
PR
ランドマーク税理士法人

問題はこちら

1ページ目:クイズを解きたい方はこちらから! 以下は問題の答えと解説です

解説

正解は「小野妹子」おののいもこでした。

ヒント1:生け花の流派・池坊の祖

池坊は京都にあるお寺・六角堂で生まれた、日本有数の華道(生け花)の流派です。六角堂を建てたのは遣隋使を派遣したことで有名な聖徳太子であり、小野妹子は本尊の供養を命じられました。六角堂の北側に池があったことから、六角堂の僧侶が住んでいた場所を「池坊」と呼ぶようになったとのことです。

小野妹子は池坊で「道祖」と呼ばれており、妹子をはじめとする代々の六角堂の住職が仏前に花を供える中で工夫を加えていったことが生け花の始まりとされています。室町時代には池坊専応によって理論が確立され、一般に『池坊専応口伝』と呼ばれる花伝書が生まれました。現代でも池坊は生け花の流派として確固たる地位を築いています。

ヒント2:大事な手紙を持ち帰れなかったにもかかわらず昇進

妹子は遣隋使に抜擢されたとき、当時の位階制度「冠位十二階」で上から5番目に当たる「大礼」という位にすぎませんでした。そんな妹子が遣隋使という大役に任命されたのは、聖徳太子の推薦があったためとされています。小野妹子は遣隋使として中国に渡ると、中国の皇帝・煬帝ようだいから手紙を受け取り、中国の使者を伴って日本に帰りました。

▲中国史に残る暴君、煬帝

しかし、帰る途中に妹子は煬帝からの手紙を失ってしまいます。妹子はその理由を「百済くだら(現在の朝鮮半島にあった国)で奪われたため」と説明しましたが、当然朝廷では強く責められることに。流罪にすべきという意見まで出たのですが、どうにか推古天皇の取りなしで許されました。その後、再び遣隋使として中国に渡り、2度目の帰国後には冠位十二階の最高位「大徳」に昇進したのです。

ところで、妹子は「本当は手紙をなくしたわけではない」という説もあります。この説は、手紙の中で日本に対し中国が尊大な態度をとっていたため、わざと朝廷に提出しなかったというものです。

ヒント3:聖徳太子により遣隋使として中国に派遣

607年、小野妹子は遣隋使として中国に派遣されました。この時、仏教の勉強をするため、学問僧数十人がともに中国に渡ったようです。このように、遣隋使は外交だけでなく、中国の文化を摂取する目的もあったとされます。中国で学問を治めた人材は、後に大化の改新に貢献する知識層となったのです。

ところで、しばしば小野妹子は「最初の遣隋使」といわれますが、一説には妹子以前の遣隋使が存在したともいわれています。というのも、日本の記録には残っていないのですが、中国の歴史書『隋書』に、600年に日本から使者が来たという記述があるのです。遣隋使に関しては他にも日本と中国で記録が一致しない部分があり、研究の進展が待たれるところですね。


歴史の教科書にも登場する小野妹子ですが、実は遣隋使になる前の前半生はほとんどわかっていません。しかし、突然遣隋使に大抜擢されたからには決して凡庸な人材ではなかったと見え、様々な想像ができるのも面白いなと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございます! ぜひ次回の「今日の一問 社会編」にも挑戦してくださいね!

【前回の「今日の一問・社会編」はこちら】

【あわせて読みたい】

4
Amazonのアソシエイトとして、当サイトは適格販売により収入を得ています。

関連記事

この記事を書いた人

藤島

東京大学理学部4年生で、生物学を専攻しています。好きなことは歴史、生き物。趣味は読書などです。新しい分野を知る第一歩になれるような記事を書けるように頑張ります。

藤島の記事一覧へ