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1ページ目:はじめから挑戦したい方はこちらへ! 以下は問題の答えと解説です

解説

正解は「アレクサンドロス大王」でした。紀元前4世紀後半に生きた、マケドニアの王です。別名の「アレクサンダー」「アレキサンダー」や「イスカンダル」でも正解です。

▲ヒント2のモザイク壁画に描かれたアレクサンドロス大王の姿

ヒント1:家庭教師はアリストテレス

アレクサンドロスが13歳のとき、父のフィリッポス2世が、哲学者アリストテレス家庭教師として宮廷に招きます。その後3年間にわたって、アレクサンドロスはギリシアの倫理学や自然科学を学びました。

▲アリストテレス(B.C.384~B.C.322)

アレクサンドロスは生涯にわたってギリシア文化を愛好し、紀元前334年に出発した東方遠征にもホメロスの詩集を携えて行ったと言われています。

ホメロス:古代ギリシアの詩人。叙事詩『イリアス』『オデュッセイア』の作者とされる。

また、遠征に多数の自然科学者を同行させ、後の時代の学問的発展に寄与しましたが、これもアリストテレスからの学びがあったからこそなのかもしれません。

一方のアリストテレスも、家庭教師の任を終えた後、アレクサンドロスの資金援助を得て学園を創設しました。

ヒント2:ペルシア王・ダレイオス3世との戦い

アレクサンドロスが遠征を始めた当時、アケメネス朝ペルシアという国が、西アジアから中央アジアにかけての広大な領域を支配していました。同国の王ダレイオス3世は、東を目指すアレクサンドロスの前に繰り返し立ちはだかりました。

紀元前333年のイッソスの戦いでは、ダレイオス3世が自ら軍を率いてアレクサンドロスと相対しました。優れた将軍であったアレクサンドロスは、この戦いに勝利をおさめ、その後エジプト方面へと支配の手を拡大しました。

そして、紀元前331年にはアルベラの戦い(またはガウガメラの戦い)が起こりました。この戦いでもアレクサンドロスは勝利を収め、ダレイオス3世は敗走しました。アレクサンドロスは勢いそのままにアケメネス朝の首都・ペルセポリスも陥落させ、これをもってアケメネス朝ペルシアは滅びました。

▲ヒント2のモザイク壁画

ヒント2のモザイク壁画は、このイッソスの戦いかアルベラの戦いの様子を描いたものとされています。

ヒント3:マケドニアからインドに至る大帝国

戦いを繰り返しながら、アレクサンドロスはインド北西部まで遠征し、東西にまたがる大帝国を築きあげました。

遠征の過程で、軍事・交易の中心としてギリシア風の都市(アレクサンドリア)を建設したため、各地の文化とギリシア文化の融合が進みました。以降約300年間におよぶ、ギリシア文化が東方の広大な領域に広がっていった時代をヘレニズム時代と呼びます。

アレクサンドロス自身は紀元前323年に、大帝国の体制を確立する前に病死してしまいますが、ギリシア風の都市を基盤としたギリシア文化は、人々の暮らしに確かに根付いていたのでした。

ちなみに、誤答選択肢の「フィリッポス」は「フィリッポス2世」のことで、アレクサンドロスの父の名前です。「ヘファイスティオン」は、アレクサンドロスの右腕として活躍した臣下の名前です。アレクサンドロスと同じくアリストテレスに学んでおり、同年代の盟友でもあったと伝わっています。


アレクサンドロスが東を目指して遠征を始めた理由は、実のところよくわかっていません。アリストテレスに学んだ彼のことですから、もしかすると「世界の果てを見てみたい」とか、そんな好奇心あふれる理由だったのかもしれません。

だとすれば、母国を発って大量の臣下を引き連れ、大陸を縦横無尽に駆け抜けた彼は、ひどく自分勝手な王だったともいえるかもしれません。

それでも王についていった臣下たち、ともに学び育った盟友、カリスマ性あふれる王……そこには幾多の物語があったに違いありません。ロマンがありますね。

今回はここまで。次回の「今日の一問・社会編」もお楽しみに。

それではまた。

【前回の「社会編」はこちら】

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この記事を書いた人

﨑山 航志

神戸大学大学院 人文学研究科 社会動態専攻 博士課程前期課程2年。専門は社会学。主な研究テーマはVTuberという職業について。好きなアニメは『天元突破グレンラガン』、好きな漫画は『AKB49~恋愛禁止条例~』。

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