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解説
正解は「陸奥宗光」でした。伊藤博文内閣の外務大臣として不平等条約の改正に成功した人物です。
▲陸奥宗光。駐米公使の未亡人に「私が見た日本男子の中の一番美しい方」と評された
ヒント1:西南戦争の際に西郷隆盛に味方
明治維新とともに新政府にポストを得た陸奥宗光は、兵庫県や神奈川県の知事を歴任し、地租改正にも関わりました。しかし、1877年に西郷隆盛が起こした西南戦争において、挙兵計画に加わったとして翌年逮捕されてしまいます。
宗光は獄中でもイギリスの哲学者ベンサムの著作の翻訳活動に打ち込み、1882年に出獄した後はドイツ人のシュタインから国家学を学んで、西洋の思想の理解に努めました。1888年には駐米公使となり、メキシコとの間に対等条約を結ぶという成果を上げています。
その後もイギリスが日本に対して持っていた領事裁判権を撤廃したり、日清戦争の講和会議で全権委員として下関条約を締結したりと、外交の分野で活躍しました。
ヒント2:海援隊や亀山社中で活動
陸奥宗光は和歌山藩の武士の子として生まれましたが、父が政争に巻き込まれて失脚したことで、幼くして一家が離れ離れになってしまいました。そこで宗光は15歳で江戸に出て儒学を学びますが、やがて天皇を尊び外敵を打ち払おうとする「尊王攘夷運動」に身を投じます。そして出会ったのが坂本龍馬でした。
宗光は坂本龍馬と共に、勝海舟が設立した海軍操練所で学びました。海軍操練所が閉鎖された後は、龍馬が設立した日本初の商社・亀山社中や、その後身の海援隊で活動しました。海援隊は宗光のほかにも、後の衆議院議長の中島信行などの人材を輩出しています。
ヒント3:「カミソリ大臣」と呼ばれた
陸奥宗光は「頭が切れる」、つまり頭の回転がかなり速かったことから「カミソリ大臣」とあだ名されました。陸奥の著書『蹇蹇録』は、戦争外交論の古典として知られています。陸奥のことを、坂本龍馬はこう表現していたと言われています。
独立して自ら其志を行うを得るものは只余と陸奥のみ
現代語訳:自分の力だけで自分が考えたことを実行できるのは私(坂本龍馬)と陸奥宗光だけだ
また、陸奥宗光は上司であっても自分が認めたものではないと無視したり、辞表を叩きつけたりしたという逸話も残っています。「使い手である上司が使い方を間違えるとけがをする」という意味でも「カミソリ」であったようです。
陸奥宗光は逮捕されときには勉強したり、政府から下野したときには藩閥による権力の独占を批判したりと、その時どきで自分にできることを考えて行動している点が好きなポイントです。逆境での努力が多くの実績に結びついたのかなと思います。
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