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解説
正解は、大日本帝国憲法(明治憲法)でした。
大日本帝国憲法は1889年に制定された日本初の近代的な成文憲法です。欧米諸国との不平等条約を改正するためには、近代国家にふさわしい憲法の制定が必要だと考えた日本政府が、君主権の強いプロイセン(現在のドイツ)の憲法を参考に起草しました。
ここからは時系列に沿ってヒント3から順に、各画像を見ていきましょう。
ヒント3:和田英作『憲法発布式』
ヒント3の画像は、明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に所蔵されている『憲法発布式』です。明治天皇から内閣総理大臣の黒田清隆に憲法典が手渡される様子を描いています。
大日本帝国憲法が発布された2月11日は、現在「建国記念の日」という国民の祝日になっていますが、実は当時も「紀元節」という別の祝日でした。これは初代天皇である神武天皇が即位したとされる日です。また2月11日は、憲法発布の他にも、日露戦争の宣戦の詔勅(天皇の文書)が国民に発表されたり、太平洋戦争のシンガポール陥落の目標日とされたりと、たびたび国策に結び付けられてきました。
ヒント2:帝国議会の様子
帝国議会は、大日本帝国憲法における立法機関で、憲法が施行される1890年11月29日に第1回が開かれました。天皇の強大な権力に押されてその権限はかなり制限されていたものの、立法に「協賛」する機関として議会が存在したことは、この憲法の立憲主義(政治権力の濫用を憲法によって規制しようとする考え方)的側面の最も大きな一面と言っても過言ではないでしょう。
そんな帝国議会ですが、実は憲法成立を受けて開設されたわけではなく、その誕生には少しややこしい経緯があります。自由民権運動の広まりとともに国会開設を求める声も大きくなった事を受け、政府は1881年に「国会開設の勅諭」を出して、1890年までに国会を開くことを約束しました。このため、国会開設までに憲法を制定せねばならないということで、大日本帝国憲法が制定されることになるのです。
ヒント1:枢密院会議の写真
太平洋戦争に敗れた日本は、ポツダム宣言に定められた「民主主義の確立」や「基本的人権の尊重」といった条項を実現させるため、GHQによって天皇主権や法律の範囲内の人権尊重を定めた大日本帝国憲法の改正を余儀なくされます。
GHQによる改正案は、第90回帝国議会における衆議院・貴族院での審議を経て、最終的に枢密院で諮詢(天皇が機関に意見を求めること)されます。ヒントの画像はこの時の会議の様子であり、ここで改正案が可決されます。こうして大日本帝国憲法は終わりを迎え、日本国憲法へと生まれかわることになるのです。
このように日本国憲法は、大日本帝国憲法とは別に制定された新憲法ではなく、大日本帝国憲法の改正手続に則ってできたものであり、いわば連続したものなのです。
さて、憲法とは国の最高法規なので、その根本となる考え方は改正してはならないとされています。日本国憲法は建前上、大日本帝国憲法を「改正」してできたものであり、天皇主権などの柱に変化が生じている点が議論になることもあります。
最後に大学レベルの話をしてしまいましたが、気になる方はぜひ調べてみてください。
解説を最後まで読んでくださりありがとうございました。ぜひ次回の「今日の一問・社会編」にも挑戦してください!
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