助けてドラえもんに詳しい人
でもドラえもんのひみつ道具の中でもトップクラスの危険度を誇ります
さすがQuizKnockが誇る出木杉くんたち。まったく知らない道具が3つも出てきたが、たしかにどれも強そうである。タケコプターやどこでもドアに匹敵する万能性だ。
こうして見ると、いよいよおもちゃの兵隊はなぜここで出張ってきているのか謎である。四次元ポケット内における序列が低そうなこの道具が、なぜここまで使われているのか、ましてやなぜ歌詞にまで登場しているのかわからない。
さしあたっては、ドラえもんがおもちゃの兵隊の案件を受けているというのが妥当な線であるが、ならもうちょっと野比家が裕福になっていても良さそうなので、きっとなにか別の、おもちゃの兵隊だからこその理由があるのだろう。いや、あって欲しい。子供向けアニメにスポンサーの香りは禁物である。
「おもちゃの兵隊」が登場する理由とは?
いったいなぜ、おもちゃの兵隊なのだろうか。大人の論理から離れ、ひみつ道具としての性能のみからその意義を考えていきたい。
やはりおもちゃの兵隊の特徴は、その暴力性にあるだろう。暴力では何も解決しない、いわんや宿題をやだが、未来の世界をも知るドラえもんがもし暴力による解決を選ぶのであれば、それはどのような根拠があってのことだろうか。
おそらくそれは、「暴力革命」であろう。
カール・マルクスは、資本主義を批判し、新たな社会のあり方として共産主義を生み出した。労働者が資本家に搾取されているという資本主義の問題点を解消するために、財産を共同体が管理する社会を目指すべきだ、としたのである。
そして、そのような社会の移行を起こすための手法として用いられるのが「暴力革命」である。著書『資本論』における「暴力は、旧社会が新たな社会をはらんだ時にはいつでもその助産婦になる。」との言の通り、社会のシステムを動かす道具としての暴力を肯定したのである。それが現在、学説として受け入れられているかは別として。
たしかに、のび太の置かれている状況というのはまさに労働者そのものである。当番やおつかいは言うまでもなく労働であり、お駄賃という名目で渡される賃金はその時間的対価には見合わないものだ。宿題や試験は子供にとっての義務でもあるが、そもそも現行の義務教育制度の基盤は、従順な国民を育てるという観点から作られた「プロイセンモデル」をベースとしている。体制から与えられた、都合の良い制度なのだ!!!
のび太の向き合う課題は、どれもこれも資本主義社会の作り出した慣習に紐付いている。それに嫌気が差したのなら、暴力革命の必要があるだろう。のび太とドラえもんは、当たり前のものとして受け入れられている社会規範に、メスをいれるべく立ち上がったのである。大長編ドラえもん、のび太とプロレタリア革命、coming soon……!
さすがにこれは厳しい。星野源の主題歌は引き揚げられ、映倫もPG15くらいを繰り出してくるだろう。美術のビジュえもんみたいなダーク路線はTwitter公開が限界である。マルキシズムの限界が見えている21世紀においては、もう少し穏当な策があるはずだ。よりシンプルに考えよう。
ちょっと落ち着きましょう
そう、これはあくまで子供向けの作品。子供の視点に立ち、単純な思考へと回帰すれば自ずと答えは出るだろう。つまり考慮すべきは、のび太が単純に与えられた課題をナメている、という可能性である。
宿題はたしかに単純作業的だし、試験もまた小学生ゆえ応用的な問題を出しづらい以上、退屈なワークにも思えてくるだろう。「おつかい」なんてのはRPGだと邪魔者扱いされうる作業要素だし、当番もまたノリノリでやることは少ない。ナメが発生すること自体はそれほど不思議ではないだろう。
でも、ちゃんと言って聞かせないといけない。だからといってナメるのは大間違いだ。人生の先輩からのび太およびドラえもん(お前もお前で責任持ってなんとかせえよ)に言わせてもらうならば、「作業こそナメるな」と強く伝えたい。反復的勉強にも、意味はあるのだ。
小学校で習う学びは、どれもこれも今後の勉強に不可欠な、基礎的な内容である。算数のドリルなどはその典型で、あまり頭を使わなくてもミスが出ないレベルまでやりこんでおくべきだ。将来きっと苦労する。計算は瞬時にやれることこそが大事なのであって、やり方を知っているだけではいけないのである。
伊沢拓司は、暗記はすべての勉強の基本であり、ナメてはいけないことをたびたび提唱している。すべての勉強は暗記から始まり、覚えたことを組み合わせることで学びのレベルも思考力も向上していくのだ。その暗記のために必要なのが、宿題である。暗記パンではない。
著書『勉強大全』における「暗記という作業をする上で意識するべきは、まず『何を達成するためにこれを覚えるのか』ということです。」との言の通り、宿題は作業を通して勉強を使いこなす過程としての意義がある。他人(他道具?)にやらせたらまるで意味がないのだ。のび太、お前のためを思って言っているんだぞ。
というか、さすがにそれくらいは未来から来たドラえもん自身に理解しておいてほしい。むしろ、未来から派遣されたのび太の教育係なのだから、それくらいはわかっているはずだ。マンガ版で「おもちゃの兵隊」を出した理由は「のび太を助けに行くのが面倒だから」なので教育係大失格なのだが……あくまでそれは「ジャイアンに襲われているのび太」だからの行動である。
さすがに暗記をナメているのび太を見たら、ドラえもんもちゃんと諫めるであろう。そうであってほしい。となると、この説もまた、(希望的観測もあって)妥当性に欠くと言えよう。
……しかしまあ、こうもダメな要素しかないと、逆にドラえもんの策略かなにかを疑いたくなる。反面教師的な存在としておもちゃの兵隊を与え、宿題の大切さや暴力の虚しさを教えたのではないだろうか、と。そうでもしないと、ナメた感じで終わってしまって良くない。のび太もドラえもんも国民的ヒーローなのだ。もうちょっといい理由であってほしい。
「おもちゃの兵隊」じゃなきゃダメな理由
数多の道具と、未来の知識を持つドラえもん。彼のチョイスなのだから、どこかに必ず、「おもちゃの兵隊」でないといけない理由があるはずだ。
これまで登場した素晴らしいひみつ道具たちと、おもちゃの兵隊を比較して、おもちゃの兵隊にしかない特徴というのはなんだろうか。
考えれば考えるほど、おもちゃの兵隊はだいぶ下位互換的存在なのだが、ひとつだけ、他のひみつ道具にはない特徴を持ち合わせている。
「5人組」である、という点だ。
先述の通り、おもちゃの兵隊は1人の指揮官と4人の兵隊で構成されている。この編成、チーム感というのは、ほかの道具では出せないものだ。
そして、今回のび太に課せられた課題の数は、奇しくも4つ。そう、彼らひとりひとりが課題に対応しており、同時にこなすことが出来るのである。これは、「おもちゃの兵隊」を選ぶ理由としては十分なものだろう。マルチタスク小学生のび太。
彼らには当然、複雑な作業はできない。でも、課題の質次第では、彼らにもできることがあるのではないだろうか。
宿題に関しては、だいぶ反復的な作業であろうが、朝顔を育てるくらいのことはできるだろう。庭に置いた朝顔を数多の生き物から守り、一定期間の後に学校へと持っていく。これなら、単純な命令のみで可能なはずだ。観察日記は、ひみつ道具「いつでも日記」などを使って自動書記すればまあなんとかなるだろう。朝顔を守り続ける彼らは、けっこうかわいいんじゃなかろうか。
当番とおつかいは、一番彼らの得意とするところかもしれない。黒板を消す、プリントを配る、掃除をする。店に行き、買い物をする。どれもだいぶ単純作業だ。小さい体なりにできることはたくさんある。彼らを積極的に使わない手はないだろう。オーダーを書いた紙くらい渡しておけば、どこへでも行かせられるだろう。人形が買い物に来るくらいのことは、あの世界の住人なら驚かない。
鬼門はやはり、試験である。さすがに小学校低学年の試験とはいえど、敵と味方の区別すらつかずに攻撃してしまう兵隊たちに解けるとは思えない。そもそも筆記具が使えるかが怪しいだろう。彼らにできる試験が、果たしてあるのだろうか。
ギリギリ、あるにはある。マークシート形式である。
試験を受けるに際して、「①を全部マークしてこい」くらいの命令は、彼らにも実行可能であろう。名前だけ書いてあとは彼らをこっそり稼働させれば、試験ができないことはない。これって替え玉受験になるのだろうか……?
幸いにも、のび太は小学4年生、または5年生という設定だ。四谷大塚が行う全国統一小学生テストは、3年生からマークシート形式になる。ギリギリ滑り込みセーフである。なんだ、野比も中学受験するのか。出木杉と比べられて大変そう。うまくハマれば四谷大塚側からCMのオファーくらいは来そうだけど。
2番の歌詞が教えてくれること
タスク過多なのび太を前提とすることで、いよいよその意義を見つけたおもちゃの兵隊たち。4人の兵士は、指揮官の下、朝顔の観察やプリント配り、買い出し、そしてマーク模試に勤しむことになる。兵士の本分など関係なし。各地へ派遣されてのび太の代行を務めるさまは、さながら現代の雨ニモマケズだ。東に四谷大塚あれば、行ってマークを黒く塗り……という兵隊に、ワタシハナリタクナイ。
結局のところ、おもちゃの兵隊の出来ることは、のび太の課題のごく一部しか解決してくれはしない。しかもその解決自体も極めて刹那的なもの。やはり、何人であろうと人任せ、道具任せにしているうちは成長できないのである。
過度な甘えは失敗につながる。これは、ひみつ道具の失敗が教えてくれる、ドラえもんという作品の持つドグマであったはずだ。
なのにこの歌の1番と3番は、「ドラえもんによる一時的な解決」のみにフォーカスを当てすぎている。道具の力に頼り過ぎだ。
その点において、道具の儚さ、限定性にフォーカスした2番こそが、実は詩として白眉なのかもしれない。的はずれな道具、一時的解決、結局の失敗。2番こそが、実はもっともドラえもんらしい歌詞なのだ。
……まあ、だからといってしっくり来るかと言われると、それとこれとは別である。グローバリゼーションの進む令和の世の中、ほんやくコンニャクあたりにアプデしておくといいんじゃないでしょうか。マンナンライフさんがスポンサーについてくれそうですし。
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