この人物は誰なのか?
日常的にサンタが空を飛んでいるのであれば、もしくは飛ぶことそのものが当たり前であれば、果たしていかにもサンタな夢を見るかは疑問だし、なにより見たとしても取り立てて言うほどのことでもないだろう。それが「東京の空を飛ぶ夢をみたよ」と言うのだから、この行為自体に強調されうる要素が含まれているはずだ。
たとえばこれが、本職サンタではなく、パパママ親戚サンタだったらどうか。それはもちろん空を飛べないのだから、こんな夢を見て、現実とのギャップに打ちひしがれるのであろう。「世界の良い子の手紙」を待っている時点で、個人的な目的達成を目指しているパパママ親戚サンタとは遠い存在なのだから、やはりこの夢は本職サンタが見たものだと言えるだろうが、それならやはり「なんで夢について言及したの?」という話になる。
もうひとつ仮説を考えてみよう。「夢にまで職場が出てきちゃったよ〜」というパターンだ。サンタは空を飛ぶことを楽しく思えていないのだろう。嫌な現実が、夢にまで押し寄せてしまうやつである。頑張れサラリーマン。
しかし、「帝都随一のサウンドシステム」「摩天楼は夜に香る化粧瓶」など、美麗な言葉を並べながら語られるその情景は、必ずしもネガティブなものとは思えない。この線もだいぶ薄そうだ。「都市が沈む」に辿り着く前に、もう一つ難題が転がっている……今日は厳しい戦いである。
伊沢が考える「ひとつの説」
やはり迷ったときは、文章自体を読み直すことが大切だ。ヒントは1番にある。
あいつの孤独の深さに誰も手を伸ばさない
歩行者天国 そこはソリなんて無理
横切ろうとするなんて気は確かかい?キリンジ『千年紀末に降る雪は』(作詞:堀込高樹)
サンタは、歩行者天国を横切っている。すなわち、この現実ではサンタは「飛べない」のではないだろうか。もし飛べたのなら、歩行者天国を横切る意味などない。天高くを通過すればいいのだ。
このサンタは飛べない。だからこそ、夢の世界くらいは、童謡に歌われるような「飛べる姿」を想像しているのである。夢は、現実の対比なのだろう。
飛べない、現実的なサンタクロース。
この視点は、この歌詞全体の解像度をだいぶ高めてくれるものだ。
この歌詞のサンタは、だいぶ普通の人間のようであり、ファンタジーの助けを得ていない。
となるとおそらく、この曲の視点は「現実世界にサンタがいたらどうなるか」というifを語ったものなのだろう。サンタの視点、というこれまでのレイヤーからより詳しく、「現代にサンタがいたのであれば、サンタはどのような現実に直面するか」という歌なのだ、と捉えるべきである。
そう考えると、これまで単に「サンタの孤独」と解釈していた1番2番のフレーズが、深い意味を帯びてくる。
例えばサンタのセリフ「ごらん、神々を 祭りあげた歌も、貶める言葉も今は尽きた。」。
これもきっと、かつての宗教的な意義(キリスト教の大主教たる聖ニコラウスがサンタクロースのモデルである)が失われたことを指すのだろう。宗教的な題材であるがゆえに、サンタは結果としてキリスト教徒とそうでないものとの間に立たされていたはずだ。
そうしてキリスト教的成分が強かったころは少なくとも、サンタは神性を帯びた存在であったはずだ。しかし、今や宗教を超えた存在として人口に
サンタは、神秘を失い、力なき愛の人として現代を生きている。そんな視点を持った上で、いよいよ掲題のフレーズに取り組もう。
なぜ「都市が沈む」のか?
「都市が沈む」Cメロ後のサビは二度繰り返されるが、どちらも1番、2番のサビとは異なる内容が歌われている。
「この永久凍土も溶ける日がくる」、すなわち1番2番に歌われた「永久凍土の底に愛がある」からの発展が見られる状況だ。溶けることのない凍土の下の、取り出されることのないであろうサンタへの愛。それが、長い眠りから目覚め、おそらくは愛を受け取っている状況が想像されているパートである。気をつけたいのは、あくまでこれが「溶ける日がくる」と歌われている、想定の話であろうという点だ。現実にはまだ、愛されてはいない。
愛されたら、というifの話の中で、都市は沈む。玩具と引き換えに、サンタの望みが叶えられた結果として、都市が沈むのだ。
ここで想定されるシチュエーションというのは、ざっくり2つ。サンタの意思による分類だ。
ひとつは、サンタがこれまでの扱いを、すなわち現代社会を恨んでおり、ついに自らの望みを叶えるときがきた、というパターン。ジョーカーみたいなリベンジの物語である。現実的に都市を沈めるほどの大災害を招くとは、サンタという個人の存在からは考えづらいが、都市を無視し己の好きなように生きるとか、ささやかな復讐を加えて解放されるとか、それくらいの「沈む」具合であろう。
もうひとつは、「もしサンタに対して愛が送られるような社会になったのなら」という仮定のもと、サンタの望むと望まざるとにかかわらず、玩具と「都市が沈む」ことがトレードオフになるような社会が来た、というパターンである。もはや文明は無償の愛を想定しておらず、自壊していくのだ。この場合は、割と大きな世界の変革が起こっている。
この「都市」の結末は?
サンタの直接的な意思というのは歌詞全体で徹底して描かれていないため、ここはどちらの可能性もあるだろう。
では、どちらがより適切な解釈か。正直、どちらも趣があって好きである。
前者は、しょぼくれたサンタ像を掲げるこの曲にマッチするだろう。それだけ嫌なことが続けば、都市や文明を恨むのは当然のことだ。
後者もまた「良い」。歌詞においてサンタは徹底的に何をも望まぬ、意思を持たぬ存在である、というスタンスを貫く。「都市を沈める」ではないことからも、無償の愛を
その上で今回は、1番2番のサビとの対比、という点から前者を採用したい。「何を望む」という問いかけへの解答としてこのフレーズがある、そう言いたげな歌詞の配置であることから、「サンタ個人の望み」が強調されているのだと考えるのが、わりと自然であるだろう。「都市を沈める」でないことも、そこまで重大ではない。サンタは、都市を沈めたがっているのだ。
ラストのサビもまた、解釈の裏付けになるだろう。
最後にはサンタが「知らない街」にいる。いろんな街に現れるという伝承上のサンタには、そもそも知らない街が存在しないだろうから、ここでのサンタもだいぶ個人的な存在である。そしてサンタは、個人的な、ごくミニマムな欲望を満たしながら、ただ自分のために愛を甘受するクリスマスを過ごす。「夜風を遠く聞く」のは、ソリで駆けずり回らず、ホテルの一室にいるからなのだろう。
これは、サンタのifであり、束縛から解放された姿だ。
もちろん、都市が沈んだ結果として務めから解放された姿だとも考えうるのだが、それでもなおサンタがいるのは都市であり、ぬくぬくと冬を過ごせる「文明」である。都市を文明の象徴と捉えるのであれば、未だその文明から抜け出ていない状況は「文明崩壊」的解釈とは程遠い。
あくまで個人として、小さな夢を叶えるサンタの姿は、やはり個人的な願望サイズにとどまるのだ。
さて、この解釈を進める上で、最後に確認すべきことがある。
許しにも似た愛を得て、己の自由を獲得したサンタ。彼はなぜ、今更ながら永久凍土の底から、愛を得たのだろうか。
それはきっと、このサビもまた夢の話だからなのだろう。
東京の空を飛ぶ夢。その延長上には、かつてリスペクトを受けていたようなサンタ像が存在する。そんな力を得たら、人々からの愛をもう一度受けたら、何をするだろうか。そんな想像がサンタの中に広がる。いつかそんなことが実現したら……そんな妄想が、このラストのふたつのサビなのではないだろうか。
妄想の中で、サンタはプレゼントの対価として愛を受け取ることを選ばない。きっと、今このサンタという任を降りることが出来たのなら、愛への対価を支払わずにエゴに生きることを選ぼう。それが、このサンタの決意である。
決意は脆く儚い。なぜなら、それがすべて妄想だからだ。現実ではあいも変わらず、無償の愛を注ぎ続けることになる。だからこそ、最後まで「慰みに真っ赤な柊の実をひとつ」与えられ続けるのではないか。結局、この歌の中ではサンタは救われていないのだ。私は、そう考えている。
サンタの持つ孤独と悲哀、そして負の感情。夢を見て、現実とのギャップに悩むいち個人としてのサンタは、いつか来る「己の感情を解き放つとき」を妄想する。飽食の現代文明は、無償の愛を異端のものとして遠ざけ続けた。仏の顔も三度。サンタの顔も、永久凍土が溶ける頃には、赤い鬼のような憤怒の相に変わるかもしれない。その時こそが、都市が沈むときである。
サンタクロースをいつまで信じていたかなんてことはたわいもない話だが、本当のサンタクロースは赤い服など着ていないのかもしれないし、そうなると「たわいもない話」なんて言ってはいられない。我々の都市を支えているのは誰なのか。そんなことを考えるクリスマスも素敵だろう。
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