土曜日の昼下がり、私はラボの近くの公園に休憩に来ていた。
小学校低学年くらいだろうか、鉄棒から降りた子どもが親に語りかける。
「手に鉄の匂いがついちゃった~」
ちょっと待ってくれ、聞き捨てならない。それ、鉄の匂いじゃないんだ。
鉄じゃなくて“ケトン”の匂い
結論からいうといわゆる「鉄の匂い」はケトンと呼ばれる物質が原因です。具体的には1-octen-3-oneという化合物です。
この化合物は炭素原子、水素原子、酸素原子から構成されており、これ自身に鉄原子は含まれていません。すなわち、全く「鉄の匂い」ではないのです。
汗をかいた手で鉄に触れることで皮脂の中の物質が還元(電子を受け取る反応)されて、この化合物が生じます。
※鉄のイオンにはFe²⁺(2価)とFe³⁺(3価)の2種類がありますが、いわゆる「鉄の匂い」をもたらすのはFe²⁺のみです。
鉄の匂いを嗅ぐことはできない
そもそも我々が「匂い」を感じるためには、物質が気体になり(揮発)鼻の中にある鼻腔に到達する必要があります。
鉄や鉄の酸化物(さび)の沸点は数千度にも達するため、日常の中で気体になることはありません。すなわち、直接「鉄の匂い」を嗅ぐことはできないのです。
硬貨を触ったときの匂いも
ところで、コインを触ったあとの手の匂いを嗅いだことはありますか? 実は、硬貨に用いられる銅や真鍮(銅と亜鉛の合金)に触れた場合でも同じ反応が起こっています。いわゆる「金属臭」は実際には金属自体の匂いではありません。
大人げないかもしれませんが、間違ったことを教えちゃいけませんからね。正しい化学を教えるのも我々の役目なんです。きっと。
参考文献
- Glindemann, D., Dietrich, A., Staerk, H.-J. & Kuschk, P. The Two Odors of Iron when Touched or Pickled: (Skin) Carbonyl Compounds and Organophosphines. Angew. Chem. Int. Ed. 45, 7006-7009 (2006).
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