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1ページ目:クイズを解きたい方はこちらから! 以下は問題の答えと解説です

解説

正解は「伊達だて 政宗まさむね」でした。現在の宮城県などに大きな勢力を築いた大名です。

▲騎馬に乗った伊達政宗の像。仙台城跡で見ることができる。

ヒント1:毎朝2時間献立を考えていたともいわれるほどのグルメ

伊達政宗は食への関心が深かったようで、数々の食にまつわるエピソードが残っています。例えば、1630年に江戸幕府の将軍・徳川家光を接待した際の献立。これも政宗自身が考えたと伝わっています。全国から集まった美味・珍味を使い、味見や配膳まで政宗自身で行ったそうです。

晩年の政宗は、「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」という言葉を残しました。将軍を接待したエピソードも踏まえ、自分自身で料理するということに重きを置いていた姿勢が読み取れますね。

政宗は自分や身の回りの人のみならず、一般庶民の食にも気を配っていたようです。政宗が治めた仙台城下では味噌の醸造所が作られ、「仙台味噌」というブランドが生まれるまでになりました。江戸時代には米や塩の増産にも努めました。20世紀に「ササニシキ」や「ひとめぼれ」といったブランド米が宮城県で生まれたのも、偶然ではなかったのかもしれません。

▲政宗にルーツがあるという「仙台味噌」

ヒント2:ヨーロッパに派遣した使節団がスペイン王やローマ教皇に謁見

政宗は1613年にヨーロッパに使節団(慶長遣欧使節)を派遣しました。彼らがヨーロッパから持ち帰ったものは江戸時代を通して仙台藩に保管され、現在にまで残っています。その中には日本に残る絵画の中で実在の日本人を描いた油絵として最古とされる作品があり、この使節団の一員である支倉常長はせくらつねながが描かれています。

政宗が使節団を派遣した目的は現在のメキシコと貿易することやローマから宣教師を招くことだったとされています。ただ、使節団はローマでは貴族に列せられるなど歓迎はされたものの、当初の目的は果たすことができないまま1620年に帰国しました。出発時とは日本の情勢が大きく変わっており、全国でキリスト教が禁止されていたため、帰国も容易ではなかったようです。

ところで、ローマで発行された「支倉常長を貴族に列する」という内容の証書は現在まで残っており、この中には「伊達政宗」や「仙台」という言葉も見えます。政宗の名は遠くヨーロッパの人々にまで伝わったのですね。

▲支倉常長の肖像画はローマで製作されたと考えられている。

ヒント3:「独眼竜」という異名

政宗は幼い頃に右目を失明したものの、武将としては優秀であり「独眼竜」と呼ばれました。しかし、政宗自身は独眼を話題にされることを嫌い、死後に作る肖像には両眼を備えよと遺言したといいます。

▲現代に残る伊達政宗の肖像画

政宗が父から伊達家を継いだのは1584年。この時点で豊臣秀吉による天下統一まであと6年しかなく、「戦国武将」と呼ぶにはやや遅咲きです。しかし、蘆名氏や二階堂氏など周辺の勢力を次々と打ち破り、わずか5年ほどの間に勢力を急拡大させました。また、政宗は戦いだけの武将ではなく、若い頃から終日政務を執り行い、その合間には書籍を見るなどしていたとされています。

このように武将としてとても優秀な政宗ですが、実は和歌、茶道、能楽に詳しく、さらには能書家(書道に長けた人)としても知られるという文化人でもありました。特に和歌は京都の公家たちにも称賛されるほどの腕前だったようです。最後に、政宗の辞世の歌を紹介します。

曇りなき心の月を先だてて 浮世の闇を照してぞ行く

曇りのない(迷いのない)自らの心(信念)を月の光のように掲げ、苦難の多い現実世界(浮世)の闇を照らしながら進んでいく、という信念を貫いた人生の締めくくりを意味します。

あふれる才能で戦国時代の終わりを駆け抜けた政宗。闇に包まれた波乱の時代を生ききった、そんな満足感を感じる歌ではないでしょうか。


最後まで読んでいただきありがとうございます! また次の記事でお会いしましょう。

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この記事を書いた人

藤島

東京大学理学部大学院修士課程1年で、生物学を専門にしています。好きなことは歴史、生き物。趣味は読書などです。新しい分野を知る第一歩になれるような記事を書けるように頑張ります。

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